砂浜で時だけが緩やかに流れ、水面に向けて垂れた二本の糸が張ることはなく、固定した竿の先端がしなることもなかった。もしかしたら大物が釣れるかもしれないというグローグーとラグナーの期待はだんだんと萎んでいって、ついに彼らは釣りに興味をなくし、他の遊びに夢中になっている。ディンはそんな子供たちを眺めながら、簡易椅子に腰掛けて、獲物がかかるのを待っている。
「釣れると思うか?」
隣で、ディンと同じく息子の代わりに竿の番を任されたヴィズラが退屈そうに訊ねてきた。
「さあ、どうだろうな」
ディンは子供たちの背から、目の前の景色に視軸を移した。日差しを反射させて煌めく水面は、変わり映えすることなく凪いでいる。
「俺まで退屈になってきた」
今にも潰れそうな簡易椅子に腰掛けたまま身じろぎして、ヴィズラは鼻息をついた。
「釣れない時は、魚が考える時間を与えてくれたのだと思えばいい」
動きのない竿先を見据えて、ディンは背筋を伸ばした。離れた場所でラグナーとじゃれあっているグローグーの笑い声がヘルメットの聴覚センサーに届いた。
「こうしていると、昔のことを思い出す。コンコーディアにいる時、湖でこんな風に一緒に何度か釣りをしただろう」
「ああ、覚えている。お前が誓いを立てて間もない頃に、お前の親父に連れられて行ったのが最初だったな」
ヴィズラは両膝に前腕を載せた。背中がほんの少し丸まった。彼はリラックスしている。
「お前の親父はなにも釣れなかったが、俺たちは何匹か釣った。お前は大物を釣った」
「それがその日の夕食だった」
顔を見合わせて小さく笑った。あの時釣った魚は、夜の闇に似た色の鱗を持つ丸々と肥えた魚だった。はじめての釣り、はじめての獲物、はじめて自分で獲った食料——嬉しかった。父に褒められたことも覚えている。誇らしかった。ささやかな経験は自信になった。あの時の達成感をグローグーにも感じてほしいが、はたして、魚は応えてくれるだろうか。
「小舟で釣りに出たこともあったな」
「霧が立ち込めてきた時のことか?」
「そうだ。今だからいうが、あの時は焦った」
「わかるよ。俺もあの時は怖かった」
「どうやって戻ったか覚えているか?」
「そこは覚えていないんだ。必死だったんだろうな、お互い」
ディンはその時のことを今も覚えている。朝早くにヴィズラとふたりで釣竿と網を持って、大人が作ってくれた木製の小舟で——ちょうど子供ふたりが乗れるサイズの——釣りに出た。投網ではエビがたくさん獲れた。魚は釣れないまま時間が過ぎて、やがて辺りには濃霧が立ち込めた。右も左もわからなくなって、水面から得体の知れない生き物が飛び出してきたらどうしようという子供の想像力だけが膨らんで、隣に座るヴィズラの袖口を握って離さなかった。
霧が晴れたのか、それともふたりで危機を脱したのか。肝心なところは覚えていないが、あれは冒険だった……。
「ねえ父さん、魚、かかった?」
走り寄ってきたラグナーがヴィズラの背中にのしかかった。ほとんど同時に、ディンもふくらはぎに小さな衝撃を受けた。グローグーがしがみついて、ディンを見上げて首を傾げていた。
「グローグー、魚はまだ——」
「おい、お前の竿、かかってるぞ」
横からしたヴィズラの声に、ディンは弾かれたように竿を見た。弛んでいた糸が張り、竿先が小刻みにしなっている。慌てて竿を掴み取ると、たしかに手応えがあった。竿を持ち上げたり、傾けたりする。のべ竿だからリールも何もない。感覚で釣り上げるしかない。重さからしてかかったのは大物ではなさそうだ。それなら……。
「グローグー、やってごらん」
竿を握り締めたままグローグーのうしろに回ってしゃがみ込んだ。小さな小さな三本の指が竿を握った。穏やかだった水面に飛沫が跳ね、一瞬魚の尾が見えた。徐々に岸に近付いてきている。
格闘の末、魚影が目の前に迫り——ブラスター・ピストルサイズの魚が釣れた。飲み込んだ針を外して、逃げないようにしっかりと口を掴んでグローグーに見せると、愛弟子ははじめて自分で釣った魚を抱きかかえて、長い耳を上下させて、きゃあ、と声を上げて黒々とした眸を爛々と輝かせた。小さな身体から喜びが迸っているのを目の当たりにして、ディンは相好を崩した。
「やったなグローグー。お前が釣ったんだ。あとで焼いて食べよう」
水の張ったバケツを差し出すと、グローグーは名残惜しそうに魚を入れ、ラグナーと額を突き合わせるようにしてバケツを覗き込み、観察をはじめた。
子供には、色んな経験をさせてやりたい。たとえ小さなことでもいい。生きる上で必要のないことでもいい。できるかぎり自分でやらせたい。経験は必ず糧になるのだから……。
バケツを覗き込んで手を伸ばし、魚をつつこうとしているグローグーの日差しに濡れる丸っこい顔を見詰めて、ディンはふっと笑った。