ジョーイとハウンドマスター

※『リージョンストーリー』を元にしています

 時々、すべてが悪い夢だったんじゃないかと思う時がある。目が覚めて、キッチンに行くと夜勤明けで帰ってきた母さんがいて、コーヒーを淹れてやる。それから週末のテストの話をして、アルバイトの調子はどうか訊かれて、テキトーにごまかして、学校に行く。怠い数学の授業。気怠いタバコの煙。それから——。
「…………」
 項垂れたまま、仮面の下で鼻から吸い込んだ空気を口から吐き出す。馬鹿みたいだ。もうあの頃には戻れないってのに。

 『オーモンド山のリゾート』のロッジ。暖炉の前で気の抜けたビールを飲みながら、ついこの間のようで遠い過去となってしまった日々のことを思い出していると、古くなった板敷を踏み締めるブーツの音と、低い犬の唸り声がして、反射的に顔を上げた。
「ここは寒いねえ」
 黒い巨大な猛犬と、その飼い主であり偉大なる船乗り——〈ハウンドマスター〉——ボーシャ・メイが白い息を吐き出しながら歩み寄ってきた。
「暖炉があるじゃないか。座らせてもらうよ」
 ボーシャは俺の斜め前、いつもフランクが座っているソファにどっかりと腰を下ろした。
「あ、あの……なんでここに……」
「散歩さ。ここは前から気になっててね。儀式の時にここで雪をはじめて見た時は、薄汚いネズミを追いかけるのを忘れそうになったくらいだ」
 優雅に足を組み、手にした仕込杖で床を叩き、ボーシャは鼻息をついた。犬が杖の横をくるくる回ってから彼女の足元に伏せた。
「あんた、あの小僧の友達だろう? 名前はなんていうんだい?」
「ジョーイ……です」
 ボーシャにまっすぐ見つめられると、背筋が伸びる。同時にどことなく懐かしくなる。背格好が母に似ているからだろうか。
「泣いてたんだろう」
「えっ」
「ずぶ濡れで鼻を鳴らす仔犬みたいに声が震えてる」
 指摘されてようやく、自分が泣いていたことに気付いた。鼻を啜って、身じろぎしてソファに座り直す。
「男は泣くもんじゃない。泣くってことは、なにかあったんだろう。ケツをあの小僧に蹴られたのかい?」
「フランクはそんなことしませんよ」
 犬がくしゃみをして、よだれが飛び散った。
「実は、その、母さんのことを……思い出していて……」
「ああ」ボーシャの長いまつ毛に囲われた眸が細まった。「その年頃じゃ、まだ母親が恋しいだろう。あたしもそうだった。あたしの場合は父親だけどね。あんたの母親はどんな女だい?」
「説教垂れてウザい時もあるけど、俺がどんなにバカやっても最後は抱き締めてくれて……いつも心配してくれる。コーヒーが好きで……飯が美味くて、それから……」
 母のことを話すうちに目頭が熱くなってきた。
「いい母親みたいだね」
「はい。親孝行……できなかったけど……」
「どんなに汚れても、どんなに惨めな目に遭っても、胸張って生きるんだ。それが親孝行ってもんさ。ああ、それと、親の仇がいるなら、ぶち殺しな」
 ボーシャは豪快に笑った。職場で賞与をもらった時の母も、こんな風に笑っていたのを思い出す。
「あたしたちはこの場所で生きるしかない。でもあんたはひとりじゃない。あの小僧共や、あたしたちだっている。それを忘れるんじゃないよ」
 ゆっくりと立ち上がり、ボーシャは踵を返した。荒れ狂う波に立ち向かった船乗りの背中は広く、逞しく、勇ましい。母の背中もこうだった。母はいつもあの不条理な田舎で俺を守るために戦っていた。それに気付くのに、時間が掛かってしまった。
 母さん、と言いそうになって、歯を食いしばる。
「ジョーイ、あたしはあんたの母親じゃないよ」
「わ——わかってます」
 鼻声で返すと、ボーシャは吹き荒ぶ風よりも大きな声で笑った。犬が尻尾を振って跡を追う。
 胸のつかえが取れていた。ソファの背凭れに両腕を乗せて、天井を仰いでちょっとだけ笑った。
 母さん、俺は生きてる。元気にやってるよ。