喰種とナース

※食事当番という制度を設けているという捏造があります

「ありがとう、研。助かったわ」
 サリー・スミッソンは掠れた声で言ってから、ふーっと溜息をついた。
「お役に立てたならなよかったです。それにしても、大変ですね」
 研——金木研——は積み重なった皿の山をテーブルにのせてから言った。彼女がこの箱庭を統べる存在から褒美としてもらった皿の数々を整理したいというので、数えたり、運ぶのを手伝ったが、想像していたよりも数が多かった。
「この皿はコレクションしているんですか?」
「そのつもりはないわ。ただ、食事をする時に自分の分のお皿があるとみんな喜んでくれるのよ。それが嬉しくてお願いしていたら、増えてしまったの。だけど、割ってしまう子もいるから、数は不揃いなのよ」
 サリーは指先で、重なった皿の縁を上から下になぞった。「ちゃんと研の分もあるわよ。使ってちょうだいね」
「ありがとうございます」
「ああ、この皿はこんなに数が減ってしまったのね。そうだわ、私が衝動的に割ってしまったから」
 サリーは哀しそうに数枚の皿を手に取った。縁に赤い百合の模様があしらわれた小振りな白磁の皿だった。百合を愛おしそうに指先で撫でてから、サリーはゆっくりと皿をテーブルに戻した。彼女のいう「衝動」というものが「錯乱」であることを金木は知っている。サリーは時々、思い出と現実の差に打ちひしがれてしまう時がある。彼女もまた、自身と同じく、精神的に追い詰められて摩耗し、正気という手綱を手放してしまったのだろう……。
「コーヒーを淹れるわ。疲れたでしょう。休みましょう」
 ふわふわと宙に浮いたまま、サリーは金木の横を通り過ぎた。促されるまま、朽ちたソファに腰を下ろした。間もなくして、コーヒーの香りが漂ってきて、辺りを満たす焦げ臭さに混ざった。
「さあ、お茶の時間よ」
 サリーは目の前のテーブルに、ソーサラーとコーヒーカップを置いた。彼女が普段過ごしている焼け落ちた精神病院には、なんでもあるような気がした。
「いただきます」
 向かい合って、熱いコーヒーを啜る。アドリアナ・イマイの基地で飲むコーヒーとは違う味がした。独特な酸味が強いが、美味しい。
 サリーは顔を覆う麻の枕カバーを鼻梁までずらしてコーヒーを飲んでいた。金木は彼女の素顔を見たことはない。時々別の衣装に着替えることはあっても、顔をすべて晒すことはない。どんな時もいつも目元だけは覆っている。その理由を訊いたことはないが——彼女は、思い出だけを見ているのだと思う。
 コーヒーを飲みながら、本の話をした。『カラスの巣』で過ごしているカルミナ・モーラがいつも色んな本を貸してくれるのだ。彼女は金木と同じ時を生きたアーティストなので、近代の小説を好んでいて、話が合う。サリーも近代の小説は新鮮で、最近色々読んでいるのだという。この間読んだ本を勧めると、サリーは「今度読んでみるわね」と嬉しそうに言った。
「そういえば、今夜の食事当番は誰だったかしら」
「今夜はエヴァンさんと、タルボット博士と、ダニーさんです」
「まあ。心配だわ。きっと大変ね。手伝おうかしら」
「それなら、僕も行きます」
「それじゃあ、あとで一緒に行きましょう」
 コーヒーがなくなって、サリーが先にソファから立ち上がった。
「カップを洗ってからエヴァンたちのところに行きましょう。ちょっと待っていてちょうだいね」
「母さん、それ……あっ」
「……あら……」
「す、すみません、違うんです、間違えてしまって……」
 羞恥心に耐えきれず、金木は口元を片手で覆った。顔が火照るのを感じた。気が緩みすぎていた。年上の女性を母親と間違えるなんて!
「いいのよ、嬉しいわ。あなたを息子のように思っているから」
 サリーはくすくすと笑ってから金木の頭を撫でた。それが懐かしく、亡き母の姿と重なって、目頭が熱くなった。目の前がじわじわと水っぽく歪んでいく。サリーに抱き着いてしまいたいのを必死に堪えて、ごまかすようにはにかんだ。
 サリーがカップを洗っている間、金木はソファで少しだけ泣いた。いつの間にか、記憶の中で生きる母の顔はおぼろげになっていた。目を閉じても、サリーのように目を覆ってみても、思い出は見えない。見えるのは、血にまみれた現実だけだ。
 もうあの頃には戻れないのだ——。
 耐え難い空腹感に襲われて、金木は目を開けた。手の甲で濡れた目元を擦って溜息をつくと、頭の中がすっきりしていくのがわかった。
 今夜のメニューはなんだろうか。蜜のように甘く、食べ応えのある食事にありつけることを願い、舌なめずりをして、溢れる唾液を飲み込んだ。
 頭の中で、皿が割れる音がした。