それを幸福という

※登場するレシピはオマージュです。書くにあたり参考にしたレシピはありません

「面白かった。いい映画だったな」
 エンドロールの途中で、ソファの背凭れにゆっくり背中を預けながら、隣で彼が満足そうに溜息を零した。
「ハッピーエンドでよかったです」
「スパゲッティが美味しそうだったなあ」
「たしかに美味しそうでしたね。食べ応えもありそうで」
 エンドロールが終わり、動画配信サービスのホーム画面に戻った。ハッピーエンドの余韻の中で、作中主人公たちが食べていた料理を思い出す。ミートボールがごろごろの、トマトベースのスパゲッティ……夕食の時間が近いからか、急に空腹を覚えた。
「作ってみようか」ローテーブルに置いたスマートフォンを手に取り、彼は続けた。「有名な映画だから、検索したら再現レシピが見付かるんだろう。……ああ、ほら、出てきた」
「本当ですか」
 ふたりで小さな画面を覗き込む。そこには、映画に出てきたスパゲッティを再現した魅力的な写真が表示されていた。
「美味しそうですね。食べてみたいです」
「それじゃあ、早速買い物に行こう」
「はい、行きましょう」
 マグカップに残っていたコーヒーを揃って飲み干し、リモコンを手繰り寄せてテレビを消して、鷹揚と腰を上げ、スーパーマーケットに向かった。

 必要な食材をカートに入れ、食事中に飲むためのノンアルコールワインと、明日の朝食で食べるフルーツと、後輩たちのためにチョコレート菓子を購入した。
 自宅に戻り、抱えた紙袋をキッチンカウンターへ置いて、手洗いとうがいを済ませる頃には、彼も私もやる気に満ちていた。
「さて、はじめようか」彼がシャツの袖を捲った。
「はい」と返事をして、ふたりで色違いのエプロンを着け、スマートフォンを覗き込む。映画通り、二人前のレシピだった。
 彼と料理をするのは楽しい。この家で生活を共にするようになってから、キッチンに立つ時間が増えた。食事の時間はお互いにとって大切で、好きな時間でもある。『ワーカーズハイ』で彼と出会い、コミュニケーションを重ねて親密になったのも、食事がきっかけだった。私がスパゲッティが好きになったのも、あの店で、彼が選んでくれたからだ。
 捏ねた挽肉を掌の上で丸めながらそんなことを思い出し、スパゲッティを茹でている彼の背中を見詰める。ふっと笑みが溢れた。彼との日々は毎日が新鮮で、かけがえのないものだ……。
「ミートボール、できましたよ」
 レシピ通りに、フライパンの中にあるトマトソースに投入して、混ぜ合わせ、味を整えた。彼が茹で上がったスパゲッティと絡ませ、皿に盛り付けてくれた。 
 湯気を立てるスパゲッティから食欲をそそるにおいが立ち上る。大きなミートボールと鮮やかなトマトソース……さっき映画で観た料理そのものだ。
「冷めないうちに食べよう」
「ええ。お腹が空きましたね」
 食卓に運び、ワインを開けた。テーブルの真ん中で深紅の液体に満たされたグラスが引き合い、淵が重なり、「乾杯」と「いただきます」が揃う。
 ナイフとフォークを取り、ミートボールを一口サイズに切り分け、麺と一緒に頬張る。噛み締めると、口腔で肉汁が溢れた。酸味と甘みのあるトマトの味が濃い。美味しい。
「んー、美味しい」彼の表情が和らいだ。「主人公になった気分だ」
「ミートボールを少し大きく作りすぎたでしょうか?」
「がっつり肉を食べてるって感じがして俺は好きだよ」
「それはよかったです」
 ほっと胸を撫で下ろし、フォークの先でミートボールを突き刺して、口唇器官に運んだ。

 夕食後に食器を洗い、その後、ソファで淹れたてのコーヒーを飲んで静かな夜を過ごした。彼が肩に凭れかかって手を握ってきたので、膝の上で手を握り返した。
「いい一日だった」
 眠りに落ちる前のような声だった。
「そうですね。充実した一日でした」
「明日はデートしよう。新しくできたカフェに行かないか。異世界の甘いものが食べられるらしい」
「それは、ぜひ行きたいです」
「その後は森林公園に行こう。それから……ああ、ごめん、眠い」
「このまま眠っても構いませんよ。隣にいますから」
 互い違いに組んだ指にほんの少し力を込める。
 間もなくして、小さな寝息が聴覚器官に届いた。窓の向こう、遠くで救急車のサイレンが鳴っている。それでも今夜は、静かだ。
「おやすみなさい」
 目を閉じる。意識が眠りの底に向けて落ちていく。
 私たちの日々は、映画とは違う。コミカルではないし、スリルに満ちたものでもない。ハードボイルドでも、ロマンチックでもない。
 けれど、それでいい。ただ愛する人と寄り添って共に生き、歳を重ねられればそれでいい。それを人はきっと幸福と呼ぶのだろう。
 私と彼の人生のエンドロールは、ハッピーエンドに違いない。