『忘れ去られた遺跡』の地下の最奥にある神聖な魔術師の部屋へと下る階段が見えてきた時、湿った空気に濃い血の臭気が混ざっていることに気付いた。
それはこの地下の片隅に設けられた拷問部屋にある、素晴らしい器具の数々にこびりついた腐肉と、石畳の床に染みついた赤黒い血が生み出すのと同じにおいだった。
兜の下で鼻から肺いっぱい空気を吸い込んで、松明の火に照らされた石段を降り、入口を潜る。見慣れた部屋を目の当たりにすると思ったが、今夜は様子が違った。
魔術や錬金術で使用する謎めいた薬品や天秤が並ぶテーブルが壁際に移動していた。代わりに部屋の中央には巨大な真っ赤な肉塊があり、そこへこの遺跡の主であるヴェクナが仰向けに横たわって、目を閉じていた。
これはなんだと思わず目を瞠る。未知の肉塊からは、生皮を剥がれた人間の腕が無造作に何本も突き出していた。よく見ると、原型を留めていない躯体や頭部も確認できた。肉と肉の間には、剥き出しの臓器が埋もれている。
目の前にある肉塊が、大量の人間の死体を寄せ集めてぐちゃぐちゃにしてひとつにしたものだと気付くのに時間は掛からなかった。ヴェクナは、それをまるで寝台のようにしている。
死体でできた寝台の傍に立ち、彼の名前を呼ぼうとしてやめた。ヴェクナのこんな無防備な姿を見るのははじめてだった。
——食事も睡眠も必要ないはずだが、眠っている……。
ごくりと喉を鳴らして、まじまじとヴェクナを見下ろす。皮膚がないといえども、端正な顔立ちをしている。ボロボロのローブの裾が肉塊の上で広がって、決して地に触れることのない足が投げ出されていた。
「そこにずっと立っているつもりか? タルホーシュ」
静寂は小さな声で弾けた。下りていた瞼が持ち上がり、闇を薄めたような眸と目が合った。
「眠っていたんじゃないのか」
「ただの真似事だ。気紛れに過ぎん」ヴェクナは横たわったまま、下腹部の辺りで両手を組んで、掠れた声で続けた。「座れ」
促されるかままに、隣にどっかりと腰を下ろした。尻の下でどちゃっと湿った音がした。弾力があり、少しばかりぶよぶよとしているが、座り心地は悪くない。人間とは、血と肉の詰まった皮袋なのだと実感する。
「考えごとをするのにちょうどいいかと思ったが、こうして不必要なことをするよりも、お前が傍にいる方が冴える」
「お前が望むなら、いくらでも付き合ってやる」
片手を突いて歪な肉塊にゆっくりと横たわる。肉のマットレスは床と平行ではなく、少し傾斜になっていた。ヴェクナと並んで足を伸ばしても、余裕で寛げる。
夜空を模した天井がいつもより遠い。金色の魔法陣が星の煌めきのように瞬いているのを眺めてから意識を横に向ける。
「この死体の山はお前が築いたものか?」
「ああ。かつて私に刃向かった愚か者どもの一部だ」
「広くていいベッドになったな。寝心地も悪くない」
「気に入ったのなら、くれてやってもいい」
「こんな上等なものを……いいのか?」
のろのろと首を巡らせたヴェクナは微かに笑みを浮かべている。今夜は機嫌がいいらしい。
「褒美だ」
長い指が伸びてきて、兜の側面を撫でられた。指はそのまま眉庇の端からはみ出ている髪に滑り、手弄られた。機嫌がいいと、時々こうして愛玩動物を愛でるように扱われる時があるが、悪い気はしない。
顔の横にあった指を掬い取り、そっと握り締める。今すぐに組み敷いてしまいたくなって、「なあ」と切り出す。「抱いていいか」
ヴェクナは喉を震わせて小さく笑った。
「いいぞ。可愛がってやる」
起き上がり、両手を突いて細い身体に覆い被さった。冷たく硬い寝台が軋む。立ち上る血と臓物の臭気が情欲をあおる。ヴェクナが行った殺戮の一片。その上で本能を貪り合う——なんて甘美な褒美だろう。
兜の背面に手が回り、距離が詰まる。真っ直ぐに俺を見据える眸がすぐ傍にあった。
美しい眸は、屍の山以上に魅惑的だった。