チョコレートケーキと抱擁

※主人公は人間の女性のガワをした上位存在という描写があります

 帰ってきた彼女は不機嫌だった。
 街中で食事に誘ってきた見ず知らずの人間の男——いわゆるナンパだ——の誘いを断るために、ちょっと驚かせようとしたところ、男は半泣きで「化け物」という捨て台詞を吐いて逃げ出したのだという。
 何をしたのか訊いてみると、彼女は紅唇を可愛らしく突き出して「自分の影で遊んだだけよ」言った。
 影が生き物のように動いたのか、はたまた影の中から自身の〈正体〉のごく一部を覗かせたのかはさておき、普段の彼女はどこからどう見ても人間の女だ。同じ種族からすれば、さぞ恐ろしかったことだろう。美しい女の姿が仮初の姿であることを知っているのは、オレと、あの店のマスターくらいなのだ。
「レディに向かって化け物だなんて、失礼だわ」
 ソファの背凭れに頬杖を突き、彼女は柳眉を寄せた。大胆で気紛れな猫のような女は、拗ねていても可愛らしい。彼女は滅多に怒らない分、こういう表情を見られるのは新鮮だ。
「機嫌を直してくれ、マイレデイ」
彼女のために用意した紅茶とチョコレートケーキは、まだ手付かずのままだった。美しい横顔から皿に意識を逸らし、チョコレートケーキの先端を寝かせたフォークで削り、掬い上げて、「ほら」と口元まで運んでやる。
「…………」
 見えない猫の尻尾が揺れるのが見えた気がした。
 一口サイズに切り分けたケーキを頬張った彼女の眸が、らんらんと輝きはじめる。「……美味しい」
「アンタ好みだろう?」
 険しかった表情がみるみるうちに和らいで、いつもの魅惑的な微笑に変わった。
「大好きよ、スクリック」
 ソファが軋んだ。両肩にしなやかな両腕が載って抱き寄せられた。線の細い背中に手を回し、抱き返してやる。身体の境界線が重なって、弾力のある女の膨らみを感じた。彼女に抱き締められると、明確な体格差があるのに、オレの方が包まれているかのような錯覚を覚える。
「礼儀を知らない若造のことは早く忘れてしまえばいい。……いや、オレが忘れさせてやるとも」
 密着したまま名前を呼ぶ。艶やかな髪にキスを落として、肉の薄い背中を撫で摩った。