パンケーキとホットミルク

 眠りの底にあった意識が緩やかに浮上した。
 寝返りを打ち、眠気に満ちた暗闇の中で隣に横たわる彼の方へ身を寄せるが、身体が触れ合うことはなかった。
 トイレに行っているのだろう——ゆっくりと呼吸を繰り返すうちに、四肢の感覚が遠のいていった。眠りと覚醒の狭間を揺蕩いながら恋しい体温が戻るのを待ち侘びたが、なかなか戻ってこない。
 瞬きを繰り返し、意識を覚醒の方へ引っ張り上げた。起き上がって、ナイトテーブルのランプを点ける。
 やはり、ベッドに彼はいなかった。首を巡らせて寝室の入口を見る。ドアがほんの少し開いていて、隙間から、うっすらと仄燈が見えた。
 ベッドを降りて、スリッパを引っ掛けて部屋を出る。居間の方が明るかった。角を曲がると、キッチンに燈が点いていた。
 キッチンカウンターの前に彼がいた。寝る前と同じパジャマ姿で、俯きがちにガラス製の耐熱ボウルの中を熱心に泡立て器で掻き混ぜている。こんな時間に何か調理をするのだろうか?
 不思議に思いながら近付いた。彼は集中力が高いので、このまま傍に寄っても気付かないだろう。
 彼の前に何か並べてあった。よく見ると、燈に浮かび上がっているのは、開封されたパンケーキミックスの箱、バターの包みと、ミルクのボトルだった。
 キッチンカウンターの真横に辿り着いたが、予想通り、彼はまったくこちらに気付いていなかった。
「お腹が空いたのですか?」
 声を掛けると、彼は「うおっ」と低い声を上げて、弾かれたようにこちらに顔を巡らせた。
「エイメル……!」彼は泡立て器を握っていた手を離し、咄嗟に胸に当てた。相当驚いたらしい。「いつからいたんだ? 全然気付かなかった」
「驚かせてしまいましたね。申し訳ありません」
「俺の方こそごめん、起こしてしまったかな?」
「いえ、たまたま目が覚めたのです。貴方がいなくて、トイレに行ったのかと思ったのですが、なかなか戻ってこなかったので、何かあったのかと思いまして……」
「心配させちゃったか。すまない」彼はカウンターに両手を突いた。「どうしても甘いものが食べたくなったんだ」
 一拍置いて、彼は低い声で言った。「エイメル」
「はい」
「俺はこれから悪いことをする。どうか赦してほしい」
「悪いこと、ですか……」
「ああ。こんな時間に、パンケーキを焼いて食べる。医者の不養生だということはわかっている。だけど今の俺はこの食欲を抑えることができない」
「…………」
 耐熱ボウルへ視線を移す。罪悪感を感じたり、胸焼けをするかもしれないが、深夜にパンケーキを食べることは何の罪にも問われない。
「私も一緒に食べます。焼きましょう、パンケーキ」
「……いいのか?」
「ええ。私も夜勤の時にはちょうどこのくらいの時間に後輩たちとドーナツを食べたりしますよ」
 彼は意外そうに目を丸くさせ、それから泡立て器を握った。「一緒に夜更かししよう」

 彼は、レードルで掬い上げた生地をバターを溶かしたフライパンに流し込み、弱火で焦がさないように一枚一枚慎重に焼いた。甘い香りを漂わせた真っ白な生地は、魅惑的な焦茶色に焼けた。重ねて皿に盛り、上からメープルシロップをかけ、バターを載せて食卓に運んだ。
「いただきます」
 声を揃えて、それぞれナイフとフォークを手に取る。たっぷりかけたメープルシロップと、熱でじんわりと溶けたバターが染みた生地を一口サイズに切り分けて、口唇器官に運んだ。薄いのに、ふわふわで柔らかい。噛み締めると、優しい甘味が舌の上に広がった。パンケーキは朝食で時々食べるが、なぜか、朝食べる時よりも美味しい気がした。
「これが食べたかったんだ」
 パンケーキを嬉しそうに頬張る彼を見ていると、自然と笑みが浮かぶ。
 キッチンに灯る燈は、深夜のふたりの時間を暖かく照らしてくれた。
 パンケーキを平らげ、マグカップに注いだホットミルクも飲み干した。
「大満足だ」
 空になった皿を前にして、彼はふーっと息を吐いて、マグカップを置いた。
「さっき君に見付かった時、叱られると思ったよ」
「ふふふ。驚いた時の貴方、悪戯をしているところを見付かった時の子供のようで可愛らしかったですよ」
「……そ、そうかな」
 彼ははにかみ、身じろぎして椅子に座り直した。
「もしまた深夜に甘いものが食べたくなったら、今度はちゃんと誘ってください。私は貴方と一緒に、色んなことを経験したいのです」
「わかった。その時は、また一緒に食べよう」
 テーブルに頬杖を突いて、彼は少し眠たげな目を細めた。
「背徳的な味だったな。んー……ちょっとだけ罪悪感がある。明日のランニングは二十分追加しようかな」
「私もお付き合いしますよ」
 皿を片付けて、もう一度歯を磨いて、寝室に向かい、ベッドの中で身を寄せ合った。
 眠りに落ちるまでの間、彼の背中を抱いて、先ほど交わしたやりとりを思い出していた。
 彼が「悪いことをする」といった時は、正直驚いたが、彼のいう「悪いこと」がパンケーキを焼いて食べることだとわかった時は肩の力が抜けた。
——彼が道を踏み外しそうになったら、何が何でも止める覚悟でいる。けれどこの先、絶対にそんなことはないだろう。小さな嘘もつけない人なのだ、彼は。
 幅広の背中を撫でる。甘い夜の帳の内側で、メープルシロップのように重たい眠気が被さってきて、意識がバターのように溶けていった。