鼻歌混じりにコーヒーを淹れていると、背後から「ずいぶんと機嫌がいいな」聞き慣れた声がした。
心臓が大きく跳ね上がり、音程が外れて、悲鳴じみた声が出た。弾かれたように振り返ると、仕事で出掛けていたはずのドルネドが壁に寄り掛かって腕を組んでいた。
リズミカルにつまさきでこつこつと何度か床を叩いて、彼は首を傾げた。「私にも一杯もらえるか?」
「気配もなく後ろに立たないでくれるかな。びっくりするから」
ふーっと深く息を吐く。ドルネドは悪びれた様子もなく「気配を消すのも私の仕事のひとつだ」言った。
「仕事は上手くいった?」
コーヒーを淹れながら——といっても、ボタンひとつで上等なマシンが至高の一杯を全自動で淹れてくれる——訊ねる。
「ああ。問題ない」
「そう。よかった」
「そっちはどうだった? 大事ないか?」
「平和な一日だったよ。食器用洗剤が切れたくらいかな」
「そうか。ならいい。……洗剤は買ってこよう」
「一緒に買いに行こう。色々見たいものもあるんだ」
「それなら、明日共に出掛けるとしよう」
「じゃあ、ご飯を食べて帰ろう」
「美味いと評判の店がある」
「そこに行こう。思いっきり食べたい」
ふたりでカウンターに並んで淹れたてのコーヒーを啜った。会話は淡白ながらも話題は尽きない。話したいことが沢山ある。彼もまた色んな話をしてくれる。
捻りの効いた皮肉や諧謔に笑えば、ドルネドも釣られたように喉を震わせてくつくつと低く笑う。
ドルネドと生活するようになって半年が経った。
「いってくる」と告げる彼の大きな背中を、「いってらっしゃい」と祈りにも似た言葉と共に何度も見送ってきた。
無事に戻ってきてくれた時は心の底から安堵する。こうしてコーヒーを飲む時間すら、当たり前のようで、かけがえのないものだと気付く。
「今日は夕焼けが綺麗だったね」
何気なく先程見た美しい景色の話をすると、ドルネドは小さく首を振った。「あまりじっくり見なかった」
「地平線に沈む赤々とした太陽が本当に綺麗だったよ」
頬を崩して、口元に寄せたマグカップを傾ける。
「夕焼けは望郷の念を駆り立てる」
不意に彼はぽつりと溢した。
「誰かの格言?」
「さあな。昔誰かがそう言っていた。誰が言ったのかはもう思い出せない。顔馴染みの情報屋が酔った勢いで口にしたのか、はたまた感傷に浸った依頼主が言っていたのか——なんにせよ、故郷のことをとうに忘れた身としては、心底どうでもいい話だ」
だが、と彼は続けた。
「最近私にも帰りたいと思える場所ができた」
「それはどこ?」
一刹那の間に熱のこもった眼差しが向けられる。視線が重なって、心地いい静寂が聴覚器官を震わせる。
「お前の元だ」
「私?」
「そうだ。私が帰るべき場所は故郷じゃない。お前がいる場所こそ、私の居場所だ」
長い指が伸びてきて、頬を包み込まれた。皮の手袋越しに、親指の腹が口唇器官に触れる。
「私の名を呼んでくれ」
マグカップを落とす前に、カウンターに置く。
彼の手の甲に掌を被せて、ざらついた手袋に頬を押し付ける。
「……ドルネド……」私にとっての祈りの言葉があるように、彼にもまた、求める言葉があったらしい。「おかえり」
腰から抱き寄せられ、身体が密着した。顔が半分彼の厚い胸に埋もれる。安心感が込み上げて瞼を下ろす。
「ただいま」
聴覚器官に届いた声は、沈みゆく灼熱の太陽のように、胸を焦がしていった。