「そういえば、知ってますか、先生。北にある三階の資料室、出るんですよ」
テーブルを挟んだ向かいで菓子を食べていたエイメルの後輩のひとりが、両手を突き出し、垂れ下がった指先をぷらぷらと揺らしながら言った。実にわかりやすいジェスチャーだった。
「ああ、あの薄暗い資料室か」
ソファの背凭れに腕を載せたまま、淹れたての熱いコーヒーを啜る。
「そうですー。長い髪の人間の女の幽霊らしいですよ」
「資料室の管理人が、誰もいないのに物音がしたり、啜り泣きが聞こえることはしょっちゅうだと言っていました」
「俺たちは見たことないんですけどね。そもそも行きたくないですけど」
ソファに詰めて座る三人の後輩たちは、端から順にそう言って、チョコレート菓子の包みを破った。
「あそこにいると、たしかに視線を感じる時はあるなあ」
「え、先生、行ったことあるんですか」
「たまに行くよ。俺の前任の医師がアナログな人でね。カルテは全部紙媒体なんだよ。退職する時にカルテのほとんどを資料室に移してしまったらしくて、ちょくちょく取りに行ってるんだ」
量も多いから結構重労働なんだよと結んで、テーブルにマグカップを置いた。
「怖くないんですか?」
「別にそんなに怖くはないな。病院に勤めていたから、そういう話はよく聞いたからね。何度か見たこともあるけど、患者を診るのに忙しいのに、死人の相手なんてしていられないよ」
苦笑いすると、後輩たちは信じられないという表情でこちらを見た。
「そうだ、午後にその資料室に行くんだけど、お前たち、手が空いていたら手伝ってくれないか?」
一刹那、後輩たちはぴたりと動きを止めた。
「すみません、これからパトロールなんですよ~」
「お邪魔しました、先生、午後も頑張ってください」
「お疲れ様です。コーヒーごちそうさまでした」
そそくさと立ち去ろうとする後輩たちの反応は、先程のジェスチャー以上にわかりやすかった。
身じろぎして座り直し、残っていたチョコレート菓子の包みを開けて、口に放り込んだ。
後輩たちと入れ替わるようにしてやってきたのは、エイメルだった。
彼は胸に手を添えて「あの子たちから聞きましたが、資料室から荷物を持ってくるのなら、お手伝いしますよ」言った。
「ありがとう、助かるよ」
エイメルが資料室の幽霊の話を知っているのかはわからないが、元々そういうのは平気だろうから――ホラー映画を家で鑑賞しても、彼がひどく怯える姿は見たことがない――心配はない。提案はとてもありがたかった。
医務室から資料室まで、エレベーターがスムーズにきたとしても十五分は掛かる。長い廊下を歩きながら、周りに人がいないのを見計らって、今夜の夕食は『ワーカーズハイ』で食べる約束をした。
資料室の前にいる管理人に挨拶をして、名簿に名前と入室時間を書き、ドア横の端末にネックストラップに下がったIDを翳した。
無機な電子音がしてドアのロックが外れた。
ドアを開ける時に生じた風は埃臭い。入口横のスイッチを手探りでつける。天井の蛍光灯が一斉に点灯し、天井に届く高さの金属製のラックを照らし出すが、広い室内が隅々まで明るくなることはなかった。仄暗く、どことなく陰湿な雰囲気だ。紙が傷まないように、空調が効いているのが救いだ。
カルテが詰まった箱は、部屋の一番奥にある。
「えーと、二〇六、二〇六……」
箱に貼られたラベルを確認しながら通路を進んだ。エイメルがあとに続く。
「あった。これだ」
下から二段目のラックにお目当ての箱があった。引っ張り出して抱きかかえる。ずっしりと重い。床に置いて箱を開けると、患者の名前がアルファベット順に並んだマニラファイルがみっちり詰まっていた。
「少し見てもいいかな」
「はい、勿論です」
使い込まれたファイルの「C」欄から、昨日医務室に来た隊員の名前を探す。幸い、カルテがあった。引き抜いて開いてみる。癖のある手書きの文字が並んでいる。
ぱき。
やはり、術後のリハビリに半年かかっている。
ぱき。
ぱき。
何か硬いものがへし折れるような音が部屋のあちこちから聞こえてきて、集中力が切れた。
「なんの音でしょう?」エイメルが辺りを見回す。「空調でしょうか?」
「人の出入りが少ない部屋だから、たまに入るとそうなるんじゃないか」
すぐ傍で壁を叩く重々しい音がしたが、無視してカルテに視線を戻す。
真上の蛍光灯が点滅しはじめた。ただでさえ癖のある文字が読みにくくなる。
「蛍光灯が切れかかってますね。管理人に伝えておきましょう」
「うん、それがいいと思う」
読みにくいので、後で読もうとカルテを箱に戻し、蓋を閉めた。
「次は三〇八を見付けたい」
立ち上がって別の箱を探した。今度は反対の棚の、一番下の端にしまわれていた。箱の側面に貼ってあるラベルの日付は、前任者が退職した年だった。
「三〇八」の箱をエイメルに持ってもらった。
ラックに圧迫された狭い通路を戻る。エイメルの後ろを歩いていると、女の呻き声が聞こえてきた。
足を止めて振り返る。さっきまでいた列のラックの横から、小柄な人間の女が半分身体を覗かせていた。垂れ下がったボサボサの長い髪が顔を覆っていて、表情は見えない。赤と白の斑ら模様のワンピースを着ているのかと思ったが、白いワンピースに染みた血液だと気付くのに時間を要した。裾から伸びた枯れ木のような足には血の気がない。
さすがに驚いて、瞬きを忘れた。耳鳴りがする。女は間違いなく、まっすぐにこちらを見詰めている。身体が動かない。
女が覚束ない足取りでゆっくりと近付いてきた。
心臓が胸の内側で大きく跳ねる。肌が粟立った。本能が迫る危機に警鐘を鳴らしている。生者と死者の間には、決して踏み越えられないラインがあるが、女は、それを越えようとしている――。
後ろで重いものが落ちて床に激突した音がした。
「先生っ」
エイメルの掌に目元を覆われた。女が見えなくなる。
「見てはいけません」
後ろから抱き寄せられ、聴覚器官の横でエイメルの息遣いを感じた。
少しの間、強く抱かれていた。肺に溜まった酸素がほうっと漏れて、ようやく身動きが取れるようになった。
目元にあった体温が遠ざかる。クリアになった視界に女はいない。瞬きを繰り返して、身体の向きを変え、エイメルと向かい合った。
「先生、大丈夫ですか?」
両肩に手が載った。
「ああ、何ともない。……俺は疲れているみたいだ」
剣呑と顔を顰め、首を振り、俯く。足元にはエイメルが抱えていた箱が転がり、飛び出したファイルが散らばっていた。
「すみません、箱を落としてしまって……」
「拾えばいいさ」
エイメルがしゃがみ込んだ。それに倣って腰を屈め、箱を横に置いて、ファイルを掻き集める。
エイメルの背後でドアが開いた。覗き込んだ管理人は俺達を見ると、きょとんとして「台車を持ってきましょうか?」言った。
せっかくなので、借りた台車に、載せられる分箱を積んだ。それに加えて、エイメルが一箱抱えてくれた。
「知っていたのか、資料室の話」
明るい廊下を、台車を押しながら進み、隣を歩くエイメルに問う。
「ええ、知っています。貴方も知っていたのですね」
「あそこには何度も行っていたけど、あんなにはっきり見えたのははじめてだよ。正直驚いた。声がしても、ずっと無視していたんだ。さすがの俺も死人は診られないから」
「貴方は優しいので、心配だったのです。いつか、彼女の声に応えてしまうのではないかと」
エイメルが立ち止まった。一拍遅れて足を止め、隣を見やる。頭部の視孔の間で、赤い眸が瞬いている。
「貴方が無事でよかった。私は……これからも貴方を守ります。貴方は私の大切な人ですから」
言葉の端々には、親愛と熱が宿っていた。
「ありがとう。頼りにしているよ」
今すぐ抱き締めたい衝動を抑え、ふっと笑う。今はいけない。あとで存分に触れ合えばいい。
「さて、気を取り直して、職務に励むとしよう。このカルテを全部データ化しないといけない」
「これをすべてですか? 大変ですね」
「まあ、少しずつやるよ。資料室にはまだ残ってるから、またそのうち取りに行かないと」
「その時は声を掛けてくださいね。お手伝いしますので」
「それはありがたい。二度とあんな目に遭うのはごめんだ」
肩を竦め、力を込めて台車を押す。積まれた箱が振動で不安定に揺れる。これをぶちまけたら最悪だ。
医務室に着くと、見慣れた景色に安堵した。
「先生」
奥の休憩室に入ってすぐに、手を握られた。伝わってくる体温に瑞々しい生命力を感じた。しっかりと握り返し、ドアに鍵を掛けて、抑えられない衝動のままにエイメルの首の後ろに手を回し、口唇器官に触れた。舌を押し込み、吐息を飲み込む。息を継ぐ間すら惜しかった。夢中で求め合い、名前を呼び合う。
——俺は、今この瞬間も確かに生きている。愛する人の傍にいる。
「またあとでな」
「……はい。また、のちほど」
熱っぽい吐息を弾ませて離れた。かちりと錠が外れる音がして、エイメルがドアを後ろ手に開けた。
ドアが閉まり——ひとり取り残された。ソファに腰掛け、背もたれに身を投げ出して、天井を仰いでふーっと深く息を吐く。
エイメルがいなかったらどうなっていたのか、考えたくもなかった。
三階の資料室には、この世ならざるものがいる。暗く四角い埃臭い箱の中で、今もなお、声を聞いてくれる誰かを待っている。