「いつもご苦労さん。一個サービスしといたから」
「ありがとうございます」
カウンター越しに、テイクアウト用の紙袋とふたり分のコーヒーカップが並んだカップホルダーを受け取ると、店主は赤ら顔を綻ばせた。
「いいってことよ。アンタらのおかげでうちは安泰なんだから」
「市民の安全を守るのが私たちの務めですから」
「おう。これからも頼むよ。美味いドーナツが食いたくなったら来てくれ。アンタらはいつだって歓迎だ。そんじゃ、隊長さんによろしくな」
火傷痕の多い手をひらひらと振って、店主は厨房に戻っていった。
接客担当のスタッフがいるが、治安維持部隊の隊員が来店した時は店主自らが接客してくれるので、こんな風にちょっとした世間話をする時がある。
微かにチョコレートの甘い香りが漂っている、こじんまりとした店内を見回す。創業当時からの変わらない味が愛されているドーナツ店は、閉店時間が近くてもちらほらと客がいた。
治安維持部隊の隊員が店内にいても、みなの関心は、ドーナツや電子機器端末に向いている。今日も問題はなさそうだ。パトロールの途中で立ち寄る店はいくつかあるが、ここはメインストリート沿いにある分、夜でも比較的治安がいい。
店を出て、ドーナツ屋の敷地内の駐車場に止めている治安維持部隊の車両に乗り込む。
「ミルクを多めにしてもらいましたよ」
「やったー。ありがとうございます」
ドーナツを待ち侘びていた後輩に紙袋とカップホルダーを渡し、シートベルトを締めエンジンを掛ける。夜のパトロールは順調だ。今のところ、本部から事件や事故が起こったという通信は入っていない。
「お腹が空いているなら、食べてもいいですよ」
「エイメル先輩が運転するのに、俺だけ食べるわけにはいきませんよ」
「揚げたてですよ」
「いただきます」
後輩は膝に載せた紙袋を開け、中を覗き込んだ。コーヒーの香りに、ドーナツの甘い香りが混ざる。
「あれ、先輩も二個食べるんですか? 珍しいですね」
「いえ、ひとつサービスしてくれたんです。その分はどうぞ」
小さく笑ってハンドルに片手を置く。後輩が最初に選んだのは、ラズベリードーナツだった。
「そうしたら、おまけ分は先生にあげたらどうですか? ここのドーナツ好きだから喜びますよ」
「いいですね。ですが、この時間ですから、もう帰ってしまったかもしれません」
「今日はカルテを整理したいから残るって言ってましたよ」
「そうですか。本部に戻ったら、医務室に行ってみます」
ドーナツをもごもごやっていた後輩は、うんうん頷いて、ミルクたっぷりのコーヒーを啜った。
「熱っ」
少し冷めたコーヒーと薄くなった紙袋を手に、医務室に向かった。
ドアをノックすると、中から「どうぞ」とくぐもった声が返ってきた。
「失礼します」
中に入ると、デスクに齧りついていたであろう彼が笑顔で迎えてくれた。「エイメル、お疲れ」
目の前で二台並んでいるモニター画面には、検査結果の細かな字や、エックス線写真が表示されている。
「お疲れ様です。残業をすると聞いたので、差し入れにきました」
紙袋を見せる。印刷されているドーナツ店のロゴを見ると、彼は嬉しそうに「ちょうど甘いものが食べたかったんだよ」椅子を引いた。「一緒に食べるよな?」
「ええ。ぜひ」
「俺もコーヒーを飲もうかな」
手元のキーボードを操作してから彼は立ち上がった。モニター画面は、どちらもロック画面に変わっていた。
医務室の奥にはドアがあり、その先は、治安維持部隊専属医師専用の休憩室だ。ソファやテーブルだけでなく、小さなキッチンシンクや、冷蔵庫に電子レンジといった家電もある。彼はここに、私物のマグカップとカトラリー、それと、仮眠用に使うアイマスクを置いている。
ソファに座って間もなくして、彼は湯気の立つマグカップと幅広の皿を持ってきて、テーブルを挟んだ向かいに腰掛けた。
紙袋から取り出したドーナツを皿に置く。ストロベリーチョコレートドーナツと、細かく砕かれたナッツがたっぷり載ったチョコレートドーナツ。こっちはサービスのドーナツだ。
「どちらにしますか?」
「先に好きな方を選んでくれ」彼はマグカップを口元で傾けた。「俺はどちらでも嬉しい」
言葉に甘え、注文したストロベリーチョコレートドーナツを選んだ。持ち上げると、イチゴの甘酸っぱい淡い香りが鼻先を掠めた。
彼はチョコレートドーナツを取ってまじまじ眺めた後、ゆっくりと齧りついた。それに倣って口唇器官を開く。チョコレートでコーティングされた生地は柔らかくて、もちもちしている。
「うーん、甘い。染みるね」
「たまに食べると本当に美味しいですね。ここのドーナツは大きくて、食べ応えがあります」
口の端についたチョコレートを指の腹で拭う。
「この店のドーナツは何度も食べてるけど、昔は穴ばかり見ていた。悲観主義者だったんだ」
「ああ、『楽観主義者はドーナツを見て、悲観主義者はその穴を見る』といいますよね」
「そう。物事の良い部分を見るか、この穴のように欠けた部分を見るかによって捉え方が違うという、人生観の話だ」
「今も、穴を見ていますか?」
「いいや。エイメルに出会ってからは、ドーナツしか見えないよ。すっかり楽観主義者だ」
彼は顔の前までドーナツを持ち上げ、甘い魅惑の輪っか越しに破顔した。釣られて笑う。
「この世にある物事の大半が不完全だけど、そこばかり気にしても仕方がない」
「そうですね。穴があっても、豊かな部分を活かして補えばいい」
「エイメルと過ごすうちに、生き物も同じだと気付かされたよ。完璧な生き物はいない。誰もがドーナツのように穴を持っている。でも、大切な人が傍にいることで、穴なんて気にしなくなるくらい人生は変わる。君のおかげで俺の人生は満たされている」
顔がじわじわと熱くなった。溶けたチョコレートのような甘い歓びが胸に広がっていく。
「私は、この先の人生も、貴方と支え合って生きていきたいと思っています。喜びは分け合い、悲しみは半分背負いたい」
「俺もエイメルと同じ気持ちだよ」
見詰め合った。ふたりの間には、揺るぎない親愛と未完成の幸福があった。この幸福のパズルは、彼とこれから長い時間をかけて完成させていく。
ぬるくなったコーヒーを飲む。ドーナツの甘さにちょうどいい濃さだ。
眠らない街の片隅で愛が深まっていく。甘い幸福のパズルのピースが、またひとつ埋まった。