背徳感を喰らう

 午後十一時からはじまったニュース番組の特集コーナーで、専門家が熱弁を振るいはじめた時、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
 待ち侘びた声に居ても立っても居られず、弾かれたようにソファから立ち上がった。振り返ると、燈をつけっぱなしにした廊下から、ぬっと彼が現れた。
「おかえりなさい」
 彼は疲れた顔をしていた。国際医学学会に出席するため、早朝から片道四時間掛けて遠征したのだ。
「先に寝ててよかったのに、待っててくれたのか」
 彼を抱擁したいのを堪え、まずは一息ついてもらおうと、キッチンに向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出した。
「今日は食事をする時間がなかったよ。エイメルの弁当が恋しかった」
 彼はどっかりとソファに座り、背凭れに両腕を投げ出した。
 ボトルを差し出すと、彼は小さな声で礼を言って受け取った。
「何か食べたいものはありますか? 作りますよ」
 一拍、間があった。彼は口を開いたがすぐに閉じ、うーんと小さく唸って、また口を開いた。
「正直に言うと、今どうしても食べたいものがある」
「何ですか?」
「ラーメン……」
「……ラーメン?」
「ああ。学会の会場の近くに行列ができるラーメン屋があったんだ。結局行けなかったんだけど、それを見てからどうしても食べたくて……」
 テレビ画面の中で、アナウンサーがいう。『時刻はまもなく零時を回りますが――』
「食べに行きましょう」
「えっ、今から? いいのか?」
「はい。駅前に、早朝までやっているラーメン屋があります」
「詳しいな」
「夜勤の時に後輩たちと食べに行ったことがありますから」
 理知的な目がらんらんと輝く。
「よし、行こう」
 彼は力強く立ち上がった。

 終電が過ぎても、駅前は人が多く、明るかった。
 眠らない街を彩るネオンライトや、飲食店の看板のおかげだろう。
 目当ての店の軒先に下がった真っ赤な提灯は、目立っていた。暖簾をくぐると、こんな時間にも関わらず、ちらほらと客がいた。
 入口横に置かれたタッチパネル式の券売機からメニューを選ぶシステムなのだが、久し振りに来たので、何を食べようか少し悩んだ。
 彼は『一番人気!』と表示されたこってり系のラーメンを選んだ。
 せっかくなので、同じものを食べることにした。
 カウンター席に並んで座り、ふたり分のグラスを持ってきてくれた店員に食券を渡した。店員は厨房にも聞こえるよう大きな声でオーダーを通した。
 グラスを満たす冷えた水を一口飲んで、彼はふーっと息を吐いた。
「ラーメンを食べるのは久し振りだ。しかも、こんな時間に」
「確かに、この時間に食べるのは、背徳感があります」
「そうだな。すごく悪いことをしている気持ちになる」
 顔を見合わせてくすくす笑った。控えめな声量で互いの今日の出来事について話していると、「お待たせしました」と、厨房側からカウンターに湯気の立つ器がふたつ載った。器を手元に下ろすと、こってりとしたラーメン独特の強い香りが嗅覚を刺激した。
「美味しそうだ」
「食欲をそそられますね」
 脂の浮いた白濁したスープ。細かく刻まれた野菜。食べ応え抜群の炙り肉。半熟で味が染みていそうな煮卵。器に添えられた大きめの海苔……。夕食をしっかり食べたはずなのに、思わず喉が鳴った。
 ふたり分の割り箸が離れる乾いた音を皮切りに、揃ってレンゲで掬ったスープを味わい、黙々と麺を啜り――あっという間に背徳感の塊を平らげた。
 愛想のいい店員に見送られ、残したスープに別れを告げて店を出た。
「俺のワガママに付き合ってくれてありがとう、エイメル」
 店を出てすぐに、彼はそう言って微笑んだ。
「私も堪能しましたから。何より、貴方が満たされたのなら嬉しいです」
 街灯の下を通り過ぎる。アスファルトに伸びたふたりの不揃いな影が傾いた。
「さあて、明日からまた頑張るかあ」
「ええ。頑張りましょう、先生」
 湿った夜気を吸い込んで夜空を仰ぐ。
 今夜は、綺麗な満月だった。