愛咬

※タルホーシュが幼い頃犬を飼っていたという捏造、ならびに犬の死を描写しています。
※兜を鼻の辺りまで持ち上げる描写が含まれています。ご注意ください。

 まだ村がのどかだった頃、家の裏手にある小さな小さな納屋で、野良犬が子を産んでいたことがある。
 記憶は朧げだが、四匹ほどいた気がする。
母は痩せ細った薄汚い母犬を追っ払った。生まれて一月は経っていそうな仔犬たちは、短い四肢を弾ませて慌てて納屋を飛び出した母犬のあとを追って茂みに消えたが、一匹だけ納屋の片隅で呑気に眠っていて、逃げ遅れた。灰色の毛並みの、耳の垂れた仔犬だった。
 母は呆れていたが、「そのうちどこかへ行くでしょう」と、その鈍臭い仔犬を見逃し、納屋の扉を開け放ったままにした。
 母が家に戻ったあと、俺は兄と納屋を覗き込んで様子を窺っていた。
 やがて仔犬は目を覚ました。取り残されたことすらわかっていないらしく、辺りを見回して、親を求めてピーピー鳴いた。
 仔犬は俺たちに気付くと、未知なるものに対しての好奇心で黒々とした眸を輝かせたが、近付くと、見下ろされることに怯えて鼻を鳴らした。しゃがみこんだ兄が朝飯の残りのパンを差し出すと、仔犬は頭を低くさせてにおいを嗅いだあと、がっつくように食べはじめた。
 その日から仔犬は俺たちの遊び相手になり、成長すると忠実で勇敢な番犬になった。犬は兄弟の中でも俺によく懐いた。仔犬の時から変わらず、尻尾がちぎれそうなくらい振ってじゃれついてきて、手を甘咬みしてきた。痛くはないが、咬むなといっても聞かなかった。
「犬は愛情表現に大切なものを噛むんだって」
或る時、一度も甘咬みされたことのない弟がふてくされて言った。
「兄ちゃんばっかりズルいよ」
その日弟は一日中拗ねていた。
 村が蹂躙された日、犬は家の裏手で死んでいた。

 眠りの奈落にあった意識が浮上した。覚醒したが、寝起きでまだ頭と視界がぼんやりする。兜の下で何度も瞬きをするうちに、目の前がクリアになっていった。
 深い眠りと浅い眠りの狭間で夢を見た。死んだ犬の夢。色褪せた遠い日の思い出だ。今はもう犬の名前すら覚えていない。
「寝言を言っていたぞ」
 静寂を破った声に、もたげた頭を巡らせる。もたれかかっていた本棚の向こうから、ヴェクナがゆっくりと現れた。上と下で視線が重なった。
「どんな夢を見た?」
「子供の頃に飼っていた犬の夢だ」
 鼻から息を吐く。床に突き立て、抱きかかえて支えにしていた大剣クレイモアの刃からずらした手を柄頭に置いて立ち上がると、床から少し浮いているヴェクナよりも目線が高くなった。
「犬を飼っていたこと自体忘れていたが、今思えば、あいつは一番最初にできた忠実な——配下だった」
「その犬はどうなった」
「村が燃えた時に死んだよ。逃げられたのに、逃げなかった。家から離れなかったんだ」
 上目に俺を見詰める魅惑的な眸が細まる。俺の故郷の話をする時、ヴェクナはいつも黙って聞いている。
 ヴェクナの使い魔である死霊たちが風のように俺の背後を通り過ぎていった。『忘れ去られた遺跡』の地下は、心地いい死にも似た静けさに満ちている。
 ヴェクナと関係を持ってから、この領域で過ごす時間が増えた。冷たく仄暗い石造りの部屋で、語らい、眠り、まぐわった。錬金術も魔術もからきし理解できないが、なにをするわけもなく、ただ傍にいるだけで満たされた。
「犬は決して主人を裏切らない。それはどの次元でも変わらない。最も古く、最も忠実な生き物だ。実に好ましい」
 形のいい薄い唇の端が持ち上がる。ヴェクナは機嫌がいい。故郷の話をしたからだろうか。それとも、まさか、犬の話をしたからか?
「お前、もしかして、犬が好きなのか?」
 何気なく訊ねると、ヴェクナは喉を震わせて小さく笑った。
「そうだな。私は犬のように忠誠心のある者を好む。忠誠を誓った者は我が眷属として迎えてきた」
 ヴェクナの側近たちは皆名うての魔術師だったと聞いている。彼らはヴェクナを妄信的に崇め、魂を捧げた。そして与えられた祝福と闇の力によって不死の肉体を手に入れた。人の姿はしていなくとも、彼らは心から喜び、混沌を愛し、忠実に主人に仕えた。
「お前に忠誠を誓った俺のことも眷属にするか?」
「お前は不死の肉体はいらないと言っただろう?」
「覚えていたのか」
「覚えているとも」
 掌が甲冑の胸元に触れる。心臓の位置を確かめるようにそっと撫でられた。
「お前は剣であり盾だ。タルホーシュ、お前は私の騎士なのだ」
 撫でられた胸が熱い。鼓動が高鳴る。
「唯一無二の、私だけの騎士だ」
 掌が離れるのが名残惜しくて、長い指を包み込むようにして掴み取って腕一本分の距離を埋め、なだらかな線を描く首筋に狙いを定めて、空いていた手で兜をずらし、口を大きく開けて咬み付いた。
 骨と骨をつなぐ最低限の筋肉しかない、けれど男らしい幅のある肩にも軽く歯を立てる。
「なぜ、咬む」
「会話をするよりも、お前に咬み付きたくなった」
 首の側面を咬んでいると、どろどろとした粘っこい名前のない感情が込み上げた。ああ、今なら俺を甘咬みしてきた犬の気持ちがわかる。この男は俺のものだ。誰にも渡したくない。俺だけのものだ……!
「躾が必要か?」
 ヴェクナは指先で擽るように顎の下を撫でてきた。その手を手繰り寄せて、手首の内側に唇を押し付ける。リップ音が弾けた。
「俺を躾けるのは簡単じゃないぞ」
 舌舐めずりをして、鼻梁まで持ち上げていた兜を下ろす。視孔から光が差し込む。ヴェクナは片目を眇めるようにして笑みを浮かべていた。明らかに楽しんでいる。
「咬まれるのは、嫌いじゃないだろう?」
 兜をヴェクナの耳元に寄せて囁いて面頬を首元に埋める。返事はないが、沈黙は肯定だ。
 背中に腕が回った。もっと咬み付いてもいいということだ。
 足元に伸びていた影が重なる。今夜は絶対に離さない。何度でも咬み付いてやる。