※『Hooked on You』でトラッパーが描いた鹿の絵が雄鹿だったか雌鹿だったかわからなくなってしまったのですが、ゆるく読んでやってください。
ヒルビリーとリサには、最近熱中していることがある。
それは絵を描くことだ。『カラスの巣』に遊びに行った時にカルミナからスケッチブックと鉛筆をもらってから、彼らは儀式に選ばれなかった日は、焚火の前で夢中になって絵を描いた。好きなものだとか、他の殺人鬼の似顔絵だとか、花だとか、生き物だとか、思いついたものはなんでも描いた。スケッチブックの真っ白なページが残り半分になった頃には、彼らなりに絵を描くコツを掴んでいた。
その日、リサの提案で、どちらが上手に描けるか勝負することになった。張り切るヒルビリーを見て、リサはケタケタと笑い、嗄れた声で言った。
「それじゃあ、お互いがよく知ってるものを書きましょう」
エヴァンが食事の時間よりも早く皆が集まる焚火の前に着くと、すでに先客がいた。丸太に並んで座っているのはヒルビリーとリサだ。彼らは絵を描いていた。
「よう、なにか描けたか」
彼らの斜め前にある丸太に腰を下ろしながら訊ねると、ふたりはほとんど同時に、弾かれたように顔を上げた。集中しすぎるあまり、エヴァンのことは見えていなかったらしい。
「エヴァン、ちょうどよかった」
「私たちの絵を見てくれない?」
ふたりは、やはりほとんど同時に腰を上げると、エヴァンの前まで寄ってきて、抱えていたスケッチブックを裏返して見せてきた。
「これ、なにに見える?」
「……ん?」
ヒルビリーのスケッチブックに視線をやる。仮面の視孔から見えたのは、濃い鉛筆で描かれた、形容しがたい、幼い子供が空想で生み出したような、四本足の謎の生き物だった。中央には顔であろう大きな逆三角形が描かれていて、天辺から不恰好な角がふたつ生えている。胴体にあたる部分は丸みを帯びていて細長く、下側からは長い四肢が伸びていて、骨が折れたように直角に曲がっていた。
口を半開きにしたままリサの絵も見るが、ヒルビリーの絵とさほど変わらないものが描かれていた。
「……なんだこりゃあ……」
腕を組むエヴァンを前に、ヒルビリーとリサは顔を見合わせた。
「これがなにかわかんない?」自分のスケッチブックを眺め、ヒルビリーが首を傾げた。
「ああ、すまん、わからん」
「鹿を描いたのよ、私たち」
「……鹿ァ?」
エヴァンはふたりの絵を見比べた。言われてみれば、立派な角を持つ牡鹿に見えなくもない。
——いや、見えねえだろ!
「ちょっと鉛筆を貸してみろ」
エヴァンの傷だらけの分厚い掌が伸びてくると、ヒルビリーは不思議そうに芯の丸くなった鉛筆を渡した。
「いいか、鹿っていうのは……」
カルミナはその夜、なにも食べていなかった。『カラスの巣』でずっと絵を描いていたからだ。さすがに空腹を感じ、己の領域を出て、皆で食事をする焚火へ足を運んだ。焚火の前にはもう人がいた。
火の前にある一番太い丸太の中央に座るエヴァンを挟み込むようにしてヒルビリーとリサが座っている。エヴァンは俯いて、右手に鉛筆を握っていた。彼の膝の上にはスケッチブックがあった。
「あ! カルミナ!」ヒルビリーが手を振ってくれた。「これ見て!」彼は興奮していた。
カルミナが近付くと、エヴァンはのろのろと身じろぎして、ヒルビリーにスケッチブックと鉛筆を押し付けるようにして渡した。
「もういいだろ」
「うん、ありがとう」
ヒルビリーは受け取ったスケッチブックを掲げるようにカルミナに見せてきた。
「ほら、見て!」
そこには横向きの牡鹿が一頭描かれていた。柔らかく繊細な線、美しい陰影……顔をこちらに向けて立つ牡鹿は今にも紙の上を飛び跳ねそうなくらい精緻に描かれていた。
カルミナは目を見開いた。舌がないから感嘆の声は出せない。筆談用のメモ帳を取り出し、インクの滴る右手の爪の先で急いで走り書きをする。
「すごいわ」
ヒルビリーとリサは大喜びしている。彼らはスケッチブックを手にカルミナの横をすり抜けて、カルミナのあとに現れた殺人鬼へ駆け寄って絵を見せに行った。
「あなた、絵が上手なのね」
メモを見て、エヴァンはしばらく黙っていたが、咳払いをしてぽつりと呟いた。
「絵を描くのが好きだった。もう昔の話だ」
「もっとあなたの絵が見たいわ。今は描かないの?」
ヒルビリーの笑い声がうしろでした。
「親父に描くなと言われた」
カルミナの喉の奥で息が詰まった。彼女は眩暈を覚え、これ以上は踏み込めないことを悟った。
エヴァン・マクミランにとって父親がどういう存在かは知っている。彼の中にある決して揺るがないもの——それは父親に対する崇拝心だ。父親に言われたことは絶対なのだ。彼は父親に命じられ、大勢殺した。父親の築いた財産を守るために。
鉱山で起きた大量殺戮はカルミナが生まれるよりもずっと前の出来事だが、エヴァンが起こした事件はシリアルキラーをテーマにした本やドキュメンタリー番組で取り上げられていた。
「そう……それなら、無理強いはできないわね。素敵な絵を見たわ。ありがとう」
カルミナは爪の先で文字を綴っていく。
「あの子たちも喜んでいるわ」
「あいつらの絵は酷いもんだったぞ」
エヴァンはゆっくりと立ち上がった。仮面の下で微かに笑っている気配を感じて、カルミナも笑った。
「今度あの子たちと一緒に絵を描いてみる」
カルミナはメモを握りしめて振り返った。
「それがいい。プロが教えれば少しはまともになるだろう」
サリーにスケッチブックを見せているヒルビリーたちに顔を向けたまま、ふたりはそれ以上言葉を交わさなかった。
エヴァンは、ここではないはるか遠くを見ているように見えた。カルミナは彼の視線の先を追った。霧が立ち込め、夜の帳が下りている森の奥に、一頭の牡鹿が見えた気がした。