星の宿りを辿って

『竜都の跡形』は、一度降ると、朝なのか夜なのかわからなくなる。天を仰いでも、竜都を囲うように聳え立つ防壁とたわわに花を咲かせた大樹に阻まれ、空が見えないのだ。
 その日ヴェルナーがベースキャンプを出たのは早朝だったが、明け方の白けた空は拝めないままでいた。今頃は柔らかな朝の陽光が今を生きる生物たちに一日のはじまりを告げているに違いないが、この廃都だけは、時が流れることを拒むかのように仄暗く、静まり返っている。
 光の欠けた灰色の景色と同じく、かつて栄華を誇った都の面影は今やないが、千年前の叡智である無限のエネルギーは、源である「龍灯」から今もなおあまねく世界に向けて流れ出している。そのおかげで、自然の営みや人々の営みは——命は廻っている。
 ヴェルナーは、その未知なるエネルギーに興味があった。たかだか数十年しか生きていない己が、千年も続く壮大な仕組みを理解しきれるとは思っていない。それでも、技術者として探究心を抑えることができない。一片でもいい。とにかく、「龍灯」について識りたかった。〝あのペンダントももっと調べたいが、それはできなさそうだしな〟
 鼻息をついてふと足元を見ると、種火石が転がっていた。どこにでもあるなんの変哲もないものだが、なんとなくしゃがみ込んで拾い上げて、掌の上で転がしてみた。熱を帯びている石を触っているうちに、ヴェルナーの掌は暖かくなっていった。
「ヴェルナー」
 聞き慣れた声がして、ヴェルナーの意識は種火石から逸れた。セクレトに跨った「鳥の隊」のハンターと編纂者が近付いてきていた。大型モンスターを狩っていたのだろう、ハンターは片頬に少量の返り血を浴びていた。彼からは、死のにおいがした。
「狩りは終わりか?」
「ああ。すまない。実験に付き合えなかった。対象が上層へ行くものだから、ずっと追いかけていた」
「構わないさ。俺は調査がてら、オリヴィアにあんたを手伝えって言われてきただけだしな」
「そうか。それは助かるよ」
 ハンターはふっと笑った。その微笑みは返り血に不釣り合いだった。ヴェルナーは微苦笑した。彼が苛烈な闘いのあとであるということを一刹那忘れてしまいそうだった。
「なあ、それ、使うのか?」
 ヴェルナーの手の中の種火石をじっと見て、ハンターは瞬きせずにいった。
「ん? いや。あんたが来るまで手持ち無沙汰だっただけだ」
 ヴェルナーが肩をすくめると、ハンターは「それなら」と切り出した。「俺にくれないか」
「使うのか?」
「さっき」ハンターは上層を見上げた。「貪欲なシーウーがいた。奴がここの生態系に影響を与える前に狩ろうと思う」
 ハンターのセクレトがそわそわしはじめた。尻尾にしがみついているオトモアイルーが振り回されている。
「拘束されたら捕食されるから、その前にスリンガーで怯ませる必要がある」
「そういうことか。ほら、持っていけ」
 ヴェルナーは種火石をハンターに投げ渡した。彼は素早くキャッチすると、スリンガーにセットした。
「ありがとう。次はここにモンスターを誘導するよ」
 ハンターはセクレトの手綱を引いた。編纂者もそれに倣い、ふたりはヴェルナーに背を向けた。
「ハンター」
 去りゆく背中を、ヴェルナーは呼び止めた。セクレトが急停止し、ハンターが上半身で振り返った。ヴェルナーを真っ直ぐに見詰める目には、生き生きとした熱があった。
 呼び止めたのはいいものの、上手く言葉が見つからなかった。なにかを伝えたかったわけではない。ただ、彼を呼びたかった。
「……行ってこい」
 肺腑に溜まった酸素を吐き出すように言った。
「行ってくる」
 二頭のセクレトが地を蹴った。千年もの間、造りものの命を生み出してきた地を、力強い生命力を漲らせて駆けていく。
 静けさが戻ってきて、ヴェルナーは頭上を見上げた。滅びの景色の中で、たしかに、自分たちは生きている。
 ハンターがヴェルナーの元に戻ってくるのに時間は掛からなかった。セクレトを操り傾斜を駆け降りる彼の背後には、怒り狂ったシーウーが迫っていた。〝さて、俺の出番か〟ヴェルナーは、同行させていたアイルーに実験装置を置くように指示した。
 実験装置——樽型の罠——の傍で、ハンターに向けて触手をめちゃくちゃに叩き付けたシーウーは、爆発に巻き込まれて怯み——咆哮を上げ、ますます暴れた。装置が完全に壊れるまでの間、ヴェルナーは顎を摩りながら、観察し、考えた。〝耐久性をもう少し上げるべきか、火力を上げるべきか〟
「ねえねえ、ヴェルナーさん、僕たち、そろそろ逃げた方がよくないかな?」
 足元にいたアイルーの声に、ヴェルナーの集中力は途切れた。
「そうだな。退散するとしよう」
 続きは帰ってから考えればいい。不安そうにしているアイルーの視線を受けながら、ヴェルナーは飛竜を呼び寄せた。

 ベースキャンプに戻ったヴェルナーは、足速に自分の仕事場である工房に向かった。
 昼時なのか、食料配給所からは食欲をそそる匂いが漂っており、腹を空かせた連中が並んでいたが、ヴェルナーは見向きもせず横を通り過ぎた。
「今日は新鮮な魚が入ったから、ムニエルにしたよ!」
 トムの元気な声も、雑踏も耳に入らないほど、ヴェルナーの頭の中は騒がしかった。〝試作品の設計図をどこへやったっけかな〟
 設計図は、工房の片隅に積んだ木箱の上にあった。どこかで見たような、金属製の銀色のカップの下敷きになっていた。カップをどかして設計図を広げる。カップが誰のものかは、どうでもよかった。〝まだあの装置は改良できる〟
 ヴェルナーは時間を忘れて設計図にアイデアを書き込んだ。途中、思い余って、熱いコーヒーを入れた。部品を改良する必要がある。やることが多い。実験値と理論値はどうしても誤差が生じるから、またハンターに付き合ってもらわなくてはならない。
 不意に、羊皮紙に文字と図を綴っていく無機な音に、「きゃあ」だか「ひゃあ」だか煩わしい声が重なり、ヴェルナーの集中力は切れた。〝なんなんだ?〟顔を顰めて意識を羊皮紙上げると、調査員やアイルーたちがどよめいていた。
 注目を集めていたのは、セクレトに騎乗している血まみれのひとりの男——「鳥の隊」のハンターだった。頭から胸まで、ドス黒い血を浴びている。彼自身の血なのか、はたまた、大型モンスターの返り血なのかわからない。俯いて手綱を握り、振動に合わせて小刻みに揺れていた身体がぐらりと傾いて、彼はセクレトから落ちた。
 辺りで悲鳴が上がった。

「まったく、あんたも無茶をする」
 救護班の医療テントにヴェルナーはいた。
 丸い椅子に腰掛けて腕を組み、目の前の簡易ベッドに横たわるハンターを見据えて呟く。ハンターは叱られた子供のような表情で唸った。
「まさか、歴戦のアルシュベルドが現れるとは思わなかったんだ。なんとか討伐できたからよかったが、鎖刃の叩き付け……あれは痛かったなあ」
「ごめんね相棒、僕が回復ミツムシを出すのが遅かったから……」
 ヴェルナーの隣で、ちょこんと椅子に腰掛けたハンターのオトモアイルーが項垂れた。
「君のせいじゃないよ」
 ハンターはブランケットから手を伸ばし、優しく微笑んで彼の頭を撫でた。
「なにか飲みたいものや、食べたいものはある?僕、取ってくるよ」
 潤ませた目を擦り、オトモアイルーは首を傾げた。
「そうだな……冷えたコーヒーが飲みたい」
「ニャ、わかった、待ってて!」
「砂糖とミルクはなしで」
 椅子から飛び降りたオトモアイルーは、ぴたりと立ち止まり、長い毛に覆われた丸っこい頭を巡らせて「いつものね!」手を振って、テントを飛び出していった。
 ふたりきりになった。オリヴィアとエリックからハンターを見舞うように言われてきてみたが、存外元気そうだ。右上半身を創傷ドレッシングに覆われ、両手には包帯を巻かれていることを除けば。
「さて、そろそろ俺はお暇するとしようかねェ」
「もう行くのか」
「ああ。怪我人は大人しく休んでろ」
 ヴェルナーはのろのろと腰を上げた。ハンターは充血した片目で見詰めてきた。
「ヴェルナー」
「ん?」
「キスしてくれ」
「……あんたなあ……そういうのはふたりきりの時にしろと言っただろう」
「今、ふたりきりだ」
「…………」
 喉まで出かかった言葉は、溜息になった。ヴェルナーは簡易テントの入口を一瞥し、人の気配がないことを確認してから、身を屈め、催促通りに口付けてやった。唇が触れ合うだけのものにするはずだったのに、長手甲の紐を引っ張られ、起き上がれない一瞬の隙に舌を許してしまった。
「ん……」
 ハンターの舌は血の味がした。口腔をなぞられ、吐息が交わる——リップ音が小さく間でして、唇が離れた。
「満足したか、若造」
 鼻先に吐息が掛かる距離でヴェルナーが言うと、ハンターはそれはそれは満足そうに頷いた。
「じゃあ俺は――あ」
 ヴェルナーが振り返ると、トレイにストローの挿さったグラスを載せたオトモアイルーが、あんぐりと口を開けて立っていた。
 グラスの中で、溶けた氷がからりと音を立てた。

 医療テントを出て、ヴェルナーはハンターのオトモアイルーと——お互いの簡易テントに戻るまで、話がしたいのだという——並んで歩いていた。
「相棒がヴェルナーさんのことを好きなのはなんとなくわかってたけど、お付き合いしてるとは思わなかったよ」
 オトモアイルーは前足の肉球を擦り合わせてもじもじとしながらヴェルナーを見上げた。
「まあ、あいつも言いにくかったんだろ」
「水臭いよね。でも、照れ屋だから仕方ないか。相棒のことよろしくね、ヴェルナーさん。ああ見えて一途なんだよ」
「……知ってるよ」
 ニャニャ、とオトモアイルーが笑った。つられてヴェルナーも破顔した。
「ニャ! 見て、今日は星がよく見えるよ」
 立ち止まったオトモアイルーに倣ってヴェルナーも足を止めて頭上を仰いだ。岩壁の間から、紺碧の帷に引っ掛かっている月と星が見えた。
「あ、流れ星だ! 相棒が、早くよくなりますように」
 健気に星に祈るオトモアイルーを見て、ヴェルナーは小さく鼻息をついた。
——ヴェルナーが、ハンターから所謂愛の告白をされたのは、ちょうどこんな夜だったと思う。
 風のない、静かな夜だった。頭上では星が瞬き、大型モンスターの鉤爪に似た白い月が出ていた。
 火にあたりながらアトスとの遅めの夕食を終えた時にハンターがやってきて、クナファ村の伝統酒を飲まないかと誘われた。なんでも、里を困らせていたドシャグマの群れを討伐した礼にもらったのだという。彼はオリヴィアとエリックも誘った。「鳥の隊」からは加工屋の娘もきた。
 ハンターが譲り受けたクナファ村の伝統酒は、蒸留酒だった。彼は飲み方も教わったらしく、皆でタンカードに三分の一ほど蒸留酒を注ぎ入れて水で割り、最後に氷を入れた。一口飲むと、喉から胃の腑にかけて一瞬で熱くなったが、鼻に抜けるスモーキーな香りがクセになる。奥深い甘みがあり、美味い。
 オトモアイルーが抱えられるサイズの小樽の中身は、少しずつ減っていった。夜も更けて、最初にエリックが大きなあくびをして目を擦り、テントに戻った。加工屋の娘も潰れる前にテントに戻っていった。次に、オリヴィアがアトスを連れて去っていった。残ったのは、ヴェルナーとハンターだけだった。ハンターのオトモアイルーは、ハンターの足元で丸くなって熟睡している。
「いい夜だな」
 簡易椅子に腰掛けたハンターは、手元のタンカードから焚火に顔を向け、どこか遠くを見るように目を細めた。
「そうだな。たまにはこういう夜も悪くない」
 ヴェルナーは、タンカードの底に残っていた酒を飲み干し、ほうっと息を吐いた。ふたりの間で、火に焚べた薪がぱちりと音を立てる。火の勢いはいつの間にか弱まっていた。
「あんた、酒強いんだな」
 空になったタンカードを両手で包み込み、ヴェルナーは身じろぎして簡易椅子に座り直した。
「いや、実は結構酔ってる」ハンターは微苦笑した。「楽しくて飲みすぎた。立ったら千鳥足だと思う」
「自分のテントまで戻れるか?」
「さあ、どうかな。ここで朝まで寝ることになるかもしれない」
 ヴェルナーはたまらず小さく声を上げて笑った。つられたのか、ハンターも肩を震わせた。別にそれほどおかしいわけではないが、酔いがそうさせるのだろう。
 笑い声が途切れて、夜の静けさが戻ってきた。火だけが忙しなく、ゆらゆらと揺れている。
「君を誘った時、正直、断られるかと思った。ヴェルナーはこういう集まりは嫌いだとオリヴィアから聞いていたから」
 静寂を破ったのはハンターだった。
「他の奴の誘いだったら断ってたさ。あんただから、行ってもいいと思った」
「それだけ信用してもらえてるのは、嬉しいものだな」
「ああ。あんたのことは信頼している。いい奴だしな」
「俺は君が思ってるほど、いい奴じゃあないよ」
「そうなのか?」
「そうだよ」
 火が、ハンターの顔を赤く照らし出す。陰影がそうさせるのか、彼の表情には険しさがあった。
「俺は少しでもヴェルナーと話がしたい。そういう下心があって誘ったんだ。もちろん、オリヴィアたちと飲みたかったのもあるけどな」
「……俺と、話したい?」
「ああ。酔ったせいにして告白するが……俺は、仲間としてじゃなく、ひとりの男として、ヴェルナーのことが好きなんだ」
 ヴェルナーの胸の奥に、形をなさないなにかが荒波のように押し寄せ、心臓を飲み込んだ。
「よしてくれ。俺にその感情を向けるのは間違ってる」
 ハンターの眸がわずかに揺れ——彼はひどく寂しそうに微笑んだ。
「そうだよな。男から告白されたらそうなるよな。すまない。今の話は忘れてくれ」
「そうじゃない」ヴェルナーは咄嗟に首を振った。「あんたはまだ若い。この先の長い人生の中で間違いなくいい奴が見つかる。それであんたは満たされるだろう。だから、俺のことはやめておけ。きっと後悔する」
「そんなこと言わないでくれ。俺が惚れたのは誰でもない、君なんだよヴェルナー。そういう理由でフラれるのはごめんだ」
 今度はヴェルナーが瞬きを繰り返す番だった。互いになにも言わず、火を挟んで見詰めあった。ハンターから向けられる親愛は、灼熱そのものだった。
「俺は本気でヴェルナーが好きなんだ」
 顔が急に熱くなって、ヴェルナーは弾かれたように顔を逸らし、唇を引き結んだ。心臓の鼓動がうるさい。誰かに、面と向かって好意を打ち明けられたのははじめてだった。取り乱したことをごまかすように咳払いをして、顔を正面に戻した。
「あんたはのぼせてるだけだ。俺はあんたみたいに犠牲も出さずになにかを護るなんて選択はできない。好奇心と探究心のままに突っ走っちまうこともある。あんたのためだけに頭の容量とエネルギーを割くことだってできない。……それでも俺を選ぶのか?」
「なにがあっても、俺は君を選ぶ」
 君に傍にいてほしいんだ——ハンターはそう言って微笑んだ。狩人のただひとつの願いは、穏やかなものだった。
 …………。
「じゃあ、おやすみなさい、ヴェルナーさん」
「ああ、またな」
 短い足でぴょこぴょこ飛び跳ねるオトモアイルーに背を向けて、ヴェルナーは簡易テントに向かった。

 オトモアイルーの祈りが通じたのか、ハンターは二日後にはけろりとして、いつものように朝飯を食い、狩りに行き、昼過ぎに戻ってきた。
 相変わらず凄まじい治癒力だ。ヴェルナーは、腹ぺこで帰還した彼に食事に誘われた。なんでも、「鳥の隊」の若い娘たちに、遠回しに汗を流したり着替えをしたいと言われたらしい。それに加えて例の子供はシルドの里に戻っているから、ひとりなのだという。断る理由はなかった。アトスがオリヴィアと狩猟に出ていて不在の今、ハンターに誘われなかったら、夕方までなにも食べなかったかもしれない。
「もう傷はいいのか」
 ヴェルナーは、手元のスープ皿からくたくたに煮えたタマネギを掬い上げて口元へ運びながら訊ねた。食料配給所の昼食のメニューはシチューだ。
「ピンピンしてるよ」
「あんた、本当にタフだよなあ」
「水浴びする時は沁みるからまだ完治とまではいかないけどな」
「ニャ、たしかに、歯を食い縛って、すごい顔して入ってるよね」
 オトモアイルーがウニャウニャと笑った。水を掛け合ったり、肩車をして水面に倒れ込んだりと、子供のように楽しげにふざけ合う姿がこのベースキャンプのちょっとした名物になっているのを彼らは知らない。
「シチュー、美味しいね」
「具材がゴロゴロしてるシチュー、好きなんだよなあ」
 ハンターは嬉しそうにジャガイモを頬張った。今日最初の食事は、ヴェルナーの空っぽの胃を温めた。
「これを食い終わったら、また竜都に行くのか」
「繭を調べたいんだ。刺激すると護竜が出てくるんだから驚くよ」ハンターは顔を顰めた。
 食事を終え、食料配給所に皿を返しに行くと、ハンターは、早速、オトモアイルーと編纂者とともに竜都の下層へ向かう支度をはじめた。
「ハンター」
 ヴェルナーは、セクレトを曳いていた彼を呼んだ。彼は弾かれたように顔を巡らせた。強い意志のこもった眸と視線が交わった。
必ず帰ってこい――ヴェルナーは胸の中に湧いた言葉を飲み込んだ。
「怪我はするなよ。もうお前を見舞うのはごめんだ」
 ハンターはふっと笑った。穏やかな微笑みだった。
「ああ。気を付けるよ。それじゃあ、行ってくる」
 ハンターが発ち、入れ替わるようにしてオリヴィアとアトスが戻ってきた。アトスは、ヴェルナーが食事をしたことを、驚きながらも喜んでいた。

 自然界には、必ず一定の方角を目指す渡り鳥が数多く存在する。
 昼間に渡る種よりも、捕食者のいない夜に飛行する種は謎が多いとされていた。生物学者たちがある鳥を対象とした実験を粘り強く行ったところ、彼らが目印としているのは、特定の星であることが判明した。
 それは、北の夜空で輝く導きの星だったという。
 彼らは視覚だけでなく、体内に組み込まれた本能というコンパスで正確に飛び、帰巣する。その生態は、ヴェルナーの中で、なんとなくハンターと重なった。彼は逆風にも負けず羽ばたく鳥のようなのだ。鳥は星を目指して飛ぶが、彼はなにを目指して飛ぶのだろう。
「君だ」
 ヴェルナーの頭の中を覗き込んだかのようなタイミングで、ハンターが夕食の大食いマグロのソテーの皿から顔を上げた。
 ヴェルナーは一瞬どきりとしたが、つとめて平静に言った。「なにが?」
「この間から俺のカップが見つからなくてずっと探してるんだが、緊急の任務で駆り出された時にヴェルナーに預けたのを今思い出した」
「そういえば、知らない間に工房にカップがひとつ増えてたな。あれ、あんたのか」
「……忘れてたのか……俺も忘れてたけど……」
「いつでも取りに来てくれていい。多分まだある」
 俺がどこかへやってなければだが、と結んで、ヴェルナーは自分の皿に意識を移した。魚料理は久しぶりな気がする。
「なぁ、ヴェルナー」
「ん?」
「今夜、その……ふたりきりで過ごしたいんだが……」
 ヴェルナーのフォークの先から一口サイズに切り分けた魚の身がぽろりと落ちて、ソースの溜まりに着地した。
「構わんよ」
 顔を上げずとも、今のが夜の誘いであることはわかっている。
 切り身を突き刺して頬張る。今日は三食きちんと食べている。
「あとであんたのテントに行く。ああ、見付かったら、その時にカップも持っていこう」
 大食いマグロの身は、脂がのっていて柔らかかった。
 食後に一旦解散したあと、ヴェルナーは工房に戻り、ハンターのカップを探すことにした。どこで見たのか、眉間にシワを寄せて記憶を辿ったが、思い出せなかった。後日彼自身に探させようとしたが、工房に戻って間もなくして、カップは奇跡的に見つかった。設計図に占拠された木箱の片隅にあった。
 それを持ってテントをおとなうと、ハンターはほっとしたように笑った。「このカップで淹れるとコーヒーが冷めないんだ」
「いいカップだな。使い込まれてる」
「子供の頃、馴染みの鍛冶師からもらったんだ」
「年代物だな」
「大切なものなんだ」
 腰掛けたハンモックの傍の簡易テーブルにカップを置いて、彼ははにかんだ。
 そういえば、彼は物持ちがいい。実際、彼が狩猟で使うものや、このテントにあるものは、使い込まれている。しかし、手入れが行き届いている……そんなことをふと気付いて、ヴェルナーは感心した。
 これからまぐわうというのに、ずいぶんと不釣り合いな感情が湧いたことに対してヴェルナーが苦笑すると、ハンターは首を傾げた。
「ヴェルナー? どうかしたか?」
「大したことじゃない、気にするな。それよりも、おっぱじめるとしようか」
「……君は相変わらずだな……俺は雰囲気を大切にするタイプなんだけど……」
「なにか言ったか」
「……なんでもない」
 ハンターは唇を尖らせた。彼の傍で、虫かごの中の導蟲が明滅した。

 男ふたり分の体重を受けても、ハンモックは落ちない。
 剥き出しになった肌を重ね、体温を共有する。互いの湿った吐息と息遣いだけがする。こうしてまぐわっている間、会話はほとんどない。ハンターが自身の昂った男の本能を挿入する際に、ヴェルナーにそれを告げ、その時に一言二言交わすくらいだ。
 それでいいとヴェルナーは思う。交際しているとはいえ、好きだの、愛しているだの、そんなこっぱずかしい言葉はいらない。否、言葉を交わさずともなにを考えているかわかる。いかにハンターに想われているのかも。
 官能という火種が弾け、求め合い、快楽という耐え難い熱に溶かされ、身体の境界線がわからなくなって、やがてひとつになる。そうやって幾度かともに夜を過ごしてきた。彼との間には、目に見えない甘美で強固な絆がたしかにある。それだけは、揺るぎない事実だ。
「ヴェルナー……」
 ヴェルナーの腹の内側の深い場所に留まって、ハンターは熱っぽい息を吐いた。上と下で視線が交わる。ハンターの眸の奥には、一握の親愛があった。
「俺は、必ず君の元に戻る」
「なんだ、突然」
「……この間は、正直生きた心地がしなかったんだ」
 彼はゆっくりと腰を引いた。硬く熱いものが肉襞を逆撫でして、ヴェルナーを甘く責め立てる。背骨を伝う強烈な不随意な刺激に、ヴェルナーの総身は強張った。反った喉にハンターの顔が埋まる。突出した喉仏に唇が触れた。
「君の隣が、俺の居場所なんだ」
「……っ、ハンター……」
 眼球の裏で火花が散って目の前がよく見えなくなったが、ヴェルナーは反射的にハンターの背中に回した手に力を込め、指先を肩甲骨に引っ掛けて抱き寄せた。そして、胸の底にずっと留めていた言葉を吐き出した。
「必ず俺の元に帰ってこい」
 額が引き合って鼻先が触れ合いそうになった。ヴェルナーはハンターの名前を呼び、唇に咬み付き、舌を押し込んだ。密着した隆起した胸筋が越しに、ハンターの力強い鼓動が伝わってくる。生気に満ちた生き生きとした拍動だった。数多の命が巡るこの世界で、今この瞬間も、自分たちは生きている。生きていていい。生きなければならない。死ねば、なにも残らない――。
「約束する。俺は絶対に君の元に帰るよ」
 浅く息を継ぎ、ハンターは囁いた。背中にあった片手を掬い取られ、指が互い違いに交わる。手放したくない熱を感じて、ヴェルナーはしっかりと手を握り返した。

「今日、相棒はすっごく元気なんだ。昨日の夜ヴェルナーさんとふたりで美味しいお茶を飲んだからだね」
 オトモアイルーの無邪気さに、ヴェルナーは簡易椅子に座ったまま身じろぎして背筋を伸ばし、顎を硬くさせた。〝あいつ、一体なんて言ったんだ?〟
「……あー、その、なんだ……昨日は気を遣わせたみたいだな」
「ううん、気にしないで。僕はアトスとたくさんお喋りしたし、お付き合いしてるなら、たまにはふたりきりにさせてあげないとなって思ってたんだ。でも、今度僕も美味しいお茶飲みたいな」
「……用意しておく」
「やったー! 嬉しいな。僕、お茶大好き」
 オトモアイルーから視線を逸らし、ヴェルナーは早くハンターが戻ってくることを願った。今日は会議のあとに昼食をともに摂ることになったのだが、彼は「しまった、カップを忘れた」と険しい顔をしてテントに戻ってしまったのだ。
 ヴェルナーの気も知らず、ハンターは能天気そうな笑みを浮かべて戻ってきた。手には例の金属製のカップがあった。
 気に入りのそのカップで、彼は食後にコーヒーを飲んだ。ゆったりとした時間はおわりだ。食糧配給所に空いた皿を返しに行ったら、彼はハンターとしての責務を果たすため、狩猟に向かう。ヴェルナーもまた、技師としての役割を全うしなくてはならない。
「今日も頑張ろうね、相棒」
「おう。よろしくな、相棒」
 ハンターとオトモアイルーが笑い合う。なにげない、当たり前の光景を前にして、ヴェルナーは安堵していた。
「少し遅れるが、今日は俺も行こう。また実験に付き合ってくれ」残り少ないコーヒーを一口飲んで、ヴェルナーはハンターを見据えた。「あんたが寝込んでる間に、罠を改良したんだ」

「わかった。あとで落ち合おう」
 セクレトに跨った編纂者がやってきた。ハンターが口笛を吹くと、彼のセクレトが駆けてくるのが見えた。
「ハンター」
 ヴェルナーが呼び止めると、セクレトを撫でていたハンターが顔を巡らせた。
「行ってこい」ヴェルナーは組んでいた腕をほどいて言った。「気を付けてな」
 ハンターは小さく何度か頷いた。目尻が柔和に細まり、形のいい唇が緩やかな弧を描いている。
「ああ。行ってくるよ」
 翼を広げて鳥が飛び立つ。
 鳥は必ず戻るだろう。北の夜空の果てで眩い光を放つ、唯一無二の星の宿りを辿って。