テスカトリポカが召喚に応じた時、マスターである少女は、この世の終わりのような顔をしていた。
それもそうだろう。テスカトリポカと彼女は、以前会っている。サーヴァントは座に帰す時に記憶を手放すが、テスカトリポカは違った。
テスカトリポカは、以前のマスターのことも、マスターと敵対していた彼女のことも、彼女との取引も、彼女と幾度となく衝突したことも、彼女との最後の戦いのことも覚えていた。
最後の戦いで、テスカトリポカは勝利した方を生き返らせることを条件に、自身が支配する楽園で、己のマスター、デイビット・ゼム・ヴォイドと共に彼女と相対した。
戦いとは一度きりだ。そして必ず勝者と敗者に分かれる。デイビットは敗れた。
肩入れをするつもりはなかった。テスカトリポカは交わした取り決めは破らない。
故に彼女は生きている。歩みを止めない限り生きていていい。生きるべきだ。生き残った者こそ勝者なのだから。
テスカトリポカと彼女は、闘争と死という縁で固く結ばれている。過去に因縁があったとしても、今はこの少女のサーヴァントなのだ。共に戦えればいい。
彼女は――藤丸立香は、サーヴァントと共に数多の死線を潜り抜けてきた歴戦のマスターとだけあって、戦いというものを知っていた。
だが、立香は弱く、死ぬことを恐れている。それでも戦うことを選んだ。マスターとして凜乎として戦場に立ち、采配を振る。立香の眼差しは熱を持ち、血潮は沸き立ち、心臓は熱く脈打っていた。
立香がテスカトリポカの価値観を受け容れ、彼を敬う太陽の民の信仰を理解したのと同じく、テスカトリポカが彼女に感興をそそられ、興趣が湧くのに時間は掛からなかった。
互いを理解し、共に戦い、時間を共有していくうちに、いつしかテスカトリポカと立香の間には信頼関係ができていた。マスターとサーヴァントとして良好な関係を築けるのはいいことだとテスカトリポカは思う。
いつからか、立香との心地いい関係の中に信頼以上の感情が存在することを、テスカトリポカは感じ取っていた。
それは、アステカの主神として敬われるテスカトリポカがあまねく人々から向けられてきた畏怖ではなく、敬意でもなく、純粋な恋慕だった。彼女が己を慕っていることが言葉にせずとも伝わってくるのは、彼女の視線に情熱的な親愛がこもっているからだ。
なんにせよ、テスカトリポカは立香の胸に芽吹いた甘美な初々しい感情を摘み取ろうとは思わない。
ノウム・カルデアに召喚されたテスカトリポカは、黒のテスカトリポカ――内側には青のテスカトリポカも赤のテスカトリポカも存在する――だ。黒のテスカトリポカはその時代の流儀に合わせているため、感性や価値観といったものもヒトに近い。ヒトとヒトの間に成り立った信頼感や親しみが成長すれば、自然と恋慕になり得ることも理解している。立香に対して最も友好的である青のテスカトリポカもそれは同じだ。
それに、立香の想いが己にのみ向けられているのは、悪い気分ではなかった。
テスカトリポカに恋をしてしまった。
わたしと彼を繋ぐものは、いずれ訪れるかもしれない死と終わりの見えない闘争なのだから、この胸の高鳴りは青春に似つかわしい甘酸っぱいものではないが、わたしは彼を慕っているから、恋と呼ぶには十分だろう。
彼を好いたきっかけを思い出そうとするが、はっきりとした答えは出てこない。単純に外見や性格に惹かれたというわけではないし、彼との邂逅やナウイ・ミクトランの地での別れは、決していいものとは呼べない。
彼をノウム・カルデアに召喚したことで再会し、共に戦い、時間を共有し、神としての彼の価値観を理解し、受け容れ、彼を知り、時に褒められ、時に忠告され、彼の戦いに慄き、励まされ、隣に立つうちに――気が付けば慕っていた。
シェイクスピアの言う通り、『恋のはじまりは晴れたり曇ったりの四月のようなもの』なのかもしれない。
涼やかな眸に見詰められるだけで満たされてしまう。彼に名前を呼ばれるのが嬉しい。彼の煙に包まれれば、夜の闇は安息に変わる。
「考えごとか? マスター」
耳に馴染んだ声に思考が途切れる。手元のマグカップから視軸を上げれば、向かいに座るテスカトリポカと目が合った。
「うん」燈の少なくなった夜の食堂は静かで、相槌は囁き声のような声量でよかった。「ちょっと、恋について考えてました」
「ほう? おまえもお年頃ってワケか」
テスカトリポカはふっと笑って、自分のマグカップを口元に引き寄せて傾けた。彼はいつもコーヒーには砂糖もミルクも入れない。
「今だって恋をしてます。けど、なんで好きになったのかなって考えた時に明確な答えが出てこなくて。色々あったから……ホントに、色々」
言葉を澱ませて、ホットココアを一口飲む。胸を満たす恋心のように甘い。
「恋をしている者はいじらしいな」
テスカトリポカの切れ長の目がゆっくりと細まる。
「きっかけなんて、大したことじゃない。相手を理解し、受け容れ、そばにいることを望むようになったなら、それは恋慕だ。たしか、西洋じゃ『恋は神から授けられるもの』というそうだな。それならヒトは抗えない。落ちるしかないだろう」
「それなら、わたしのこの恋は、テスカトリポカから授けられたものです」
「オレは愛の神じゃないぜ」
「わかってます。でも、わたしが恋をしてるのは他の誰でもなく……あ……」
ふたりの間を意味ありげな沈黙が横切った。
「おっと」先に口を開けたのはテスカトリポカだった。「それはオレへの告白か?」
「……っ……!」
流れでとんでもないことを言ってしまったことを後悔したが、もう遅い。ほくそ笑むテスカトリポカに視線を溜めたまま、テーブルの下で膝にのせた拳を強く握る。顔が火照った。俯いて、力んで白くなった手の甲を見詰める。
――ああ、だめ。大事な時に、目を逸らしたらだめ。
「わたしは――」
意を決して顔を上げる。
「わたしはテスカトリポカのことが好き。大好き。だから……そばにいてくれたら、嬉しいです」
テスカトリポカは目を伏せ、コーヒーを啜り、マグカップをテーブルに置いた。
「オレにそばにいてほしいと願うのならば、戦え。共に血沸き肉躍る悦びを味わおう」
サングラスのレンズ越しに、透徹とした双眸と視線がぶつかる。胸に秘めた熱情を駆り立てるような視線に射抜かれて、息をすることを忘れてしまいそうだった。
「おまえの気持ちはわかっていたが、実際に言われてみると、いい気分だ。悪くない」
「えっ、わたしの気持ちを知ってたんですか?」
「オレを慕っていることはわかっていた」
「そんなにわかりやすいかな、わたし……」そろそろ、顔から火が出そうだ。
「かくいうオレも、実のところおまえに興味がある。死人を出さずに戦うことをよしとする弱いおまえが、今までどうやって生き延びてきたのか。この先どうやって戦うのか、ってな。おまえの努力や勇気や決断がどんな結果になるのか、行く末を見届けてやる。ああ、それと、オレを慕うのならすべてを捧げろ。身も心も魂も、髪の一本までオレのものにする」
「……心臓も、ですか?」
「もちろん。たまには鼓動を聞かせてくれ」テスカトリポカは眉間にシワを寄せて笑った。「ま、改めてこれからもよろしくな」
「……オッケーって……こと?」
「おまえの一途さを買ってやる。オレからの授けものを手放そうとは思うなよ。おまえにとって何度目の恋かは知らんが、オレを慕うのなら、最後の恋にしてやるさ。おまえはオレのことだけを見ていればいい」
「意外と独占欲強いんですね」
「唯一のものは価値が高いからな。神に似合うだろう?」
ふっと笑って頷いた。「これからも、よろしくお願いします」
ふたりだけの穏やかな夜が弾ける。
初恋は忘れてしまったけれど、二度目の恋は重たい夜の帷のようにすべてを吞み込み、わたしの鼓動を速める。
わたしは、テスカトリポカのことが好きだ。