鼓動を喰われる

 寝る前に温かいものが飲みたくて食堂に行くと、ネモ・ベーカリーが「今日も一日頑張ったご褒美です」ホットココアを淹れてくれた。

ココアには、マシュマロが三つも浮かんでいた。

 燈の少なくなった食堂で、ぽつんとひとりいつもの席に座って、温かいマグカップを両手で包み込んで、彼女の好意を味わった。

 厨房の片付けをしているネモ・ベーカリーに見送られて食堂を出たころには、日付が変わりそうだった。

 飲み干した温かいココアの甘さが連れてきた眠気を背負って部屋に向かって歩いていると、不意に背後に気配を感じた。

 立ち止まって首を巡らせると、わたしのあとをついてくるように、数メートル先に一匹の猫がいた。深い夜と同じ色の毛並みをした猫は、踏み出しかけた前脚を引っ込めると、アイスブルーの強膜の真ん中に座す丸い眸にわたしを映して、様子を窺うように長い尾を左右に振った。

「どうしてここに猫がいるの?」

 口から出たのは極々当たり前の疑問だった。

 ここに猫など存在するはずがない。

 ストーム・ボーダーは、コアユニットをはじめとした様々な部分にキャプテン・ネモの宝具であるノーチラス号の一部が組み込まれている。つまり、この船はキャプテン・ネモそのものといってもいい。そのため、彼や、彼自身が生み出したネモ・シリーズは、艦内の変化をいち早く感知する。侵入者がいれば警報が鳴る。侵入者がキャプテン・ネモの大嫌いなネズミであったとしても、彼らは決して見逃すことはないだろう。

 昼間、種火を集めるために敵と何度も交戦したが、使い魔として猫を連れたサーヴァントはいなかった。

――この猫は、何者なのだろう。

 猫を見据えたまま息をするのを忘れて身体を強張らせていると、猫は「にゃーお」と小さく鳴き、わたしの横を通り過ぎていった。

「どこに行くの?」

 ふてぶてしく廊下を闊歩する猫を視線で追う。猫はわたしの部屋の前で止まって座り込むと、まるで「開けろ」とでもいうようにこちらを見て「にゃー」と声を上げた。

 猫の鋭い双眸に見詰められると、なんだかドアを開けなくてはならない気がして、つい駆け寄ってロックを外してしまった。ドアが開くと、猫はゆったりとした足取りで部屋に入った。

「ちょ、ちょっと……!」

 慌てて猫を呼び止めてみるものの、猫はわたしに構わず、ベッドに飛び乗って丸くなった。

 得体の知れない猫にベッドを占拠され、途方に暮れる。部屋の入口で、果てどうしたものかと考えるものの、疲労と眠気で鈍った頭では最適解が浮かばなかった。

「どうしよう」俯いて片手で額を擦る。

 深い溜息を零した時、「立香」テスカトリポカの声がした。

 弾かれたように顔を上げると、ベッドにテスカトリポカが座っていた。

 なにが起きたのか理解ができず、瞬きすらできなかった。つい今まで、ベッドには猫がいたのに。

 降り注いだ沈黙が時間を止めた。眠気が吹き飛んだ。瞬きが止まらない。「猫は?」

「オレだよ」テスカトリポカは長い足を組んだ。「気付いてなかったのか?」

「気付かないよ、なんで猫なんですか?」

「艦内を見て回っていたんだ。この姿じゃ入れないところを色々とな。好奇心ってのは大切だろう? 猫は好奇心を持つと死んじまうがな」

「それで、なんでわたしの部屋に?」

「決まっている。一服するためだ」

「わたしの部屋は喫煙所じゃないんですけど」

「そう言うな。サーヴァントの憩いの場だろ、ここは。……あん? 灰皿をどこへやった? この前オレが置いていっただろう」

「マルタさんが片付けちゃいました」

 テスカトリポカは舌打ちをして「喫うなってことかよ」顔を顰めた。

 去っていた眠気が舞い戻ってきて、肩にのしかかった。あくびを噛み殺してテスカトリポカの隣に腰を下ろす。

「さっきの猫があなただってわかってたら、たくさん撫でてたのに」

「昼間に散々犬コロを撫でていただろう」

「馬琴さんの犬たちも可愛いけど、犬と猫は違うの。また猫になりません? いっぱい触りたい」

 テスカトリポカは組んでいた足をほどいて伸ばした。

「生憎オレはそこまで優しくない」

「少しくらい撫でさせてくれてもいいじゃないですか」

「やだね。猫はオレだぞ。オレを撫でられるものなら撫でてみろ」

「よし」えいやと身を乗り出し、両手を伸ばしてテスカトリポカの白い頬を挟み込み、親指の腹で頬骨をなぞる。肉の薄い頬は温かかった。サングラスの褐色のレンズの下で、テスカトリポカは目を丸くさせた。どうやら、撫でられるとは本気で思っていなかったらしい。

 アサシンである彼を不意打ちしたのは気分がよかった。笑みを堪えきれなくてニヤニヤと笑っていると、腰にテスカトリポカの手が回った。

「神に容易く触れるとは、クソ度胸だな」

 勢いよく抱き寄せられ、崩れるようにして一気に距離が詰まり、ふたりの間でテスカトリポカの胸に当たった乳房が潰れる。

「猫は狩りが上手いってことは知っているよな」耳元でテスカトリポカの低く滑らかな声が弾んだ。「喰われたいのか?」

「お――怒ったのなら謝ります。ごめんなさい……」

 おそるおそるテスカトリポカを見上げる。彼は腹を空かせたジャガーのような目でわたしを見ていた。顔の距離が近い。やや吊り上がった切れ長の目と細い鼻梁、それから、形のいい薄い唇がすぐそばにあった。胸の内側で心臓が大きく拍動する。

「おまえの不敬を許そう。ただし」整った顔がさらに近付いてくる。「オレ以外のサーヴァントにこういうことはするなよ。いいな?」

 鼻先が触れそうなくらいの距離に顔が熱くなる。「……はい……」弱々しい声を吐き出すのが精一杯だった。腰にあった手が離れて、力が抜ける。

「そんな顔をするな。もっとからかいたくなる」

 テスカトリポカは髪が乱れるくらい頭を撫でてきた。されるがままになりながら、胸元に拳を寄せる。

 心臓は落ち着いてはくれない。甘ったるい痺れが下腹部から脊髄を這い上がって、思考を鈍らせる。今はただ、彼に高鳴る鼓動を聞かれていないことを祈るしかなかった。