「さあ、我が家へ案内するとしよう」
二瓶はそう言って、猟銃と、解体した羆の肉と毛皮を担いで、ゆったりとした足取りで歩き始めた。
リュウがその後ろに続く。
二瓶の背中に視線を溜めて「我が家?」首を傾げると、尻を向けていたリュウが立ち止まって振り返り、尻尾を振って寄ってきた。
隣まで戻ってきたリュウは、こちらを見上げてスピスピと鼻を鳴らした。その愛くるしさに、ふっと頬が崩れる。つい先程までの、羆を追い立てる勇猛果敢な猟犬の雰囲気は微塵もない。歩調を合わせて隣を歩くリュウの頭を撫でてやりたいのを堪えて、二瓶のあとに続いた。
太さや長さが均一な枝を骨組にし、雨風を防ぐために藁で覆った小屋が、二瓶鉄造のねぐらだった。
獲物を待ち伏せし、気配を消すためにマタギが作る簡素な小屋に形は似ていたが、それよりもずっと頑丈で、無駄がなかった。天井は小屋の両端が一番低く、中心に向かって高くなっている。
頭をぶつけないように、慎重に二瓶の〝家〟の敷居を跨いだ。外から見ると幅広い三角形をしていた小屋は、男二人が入ると少し狭かったが、そんなことは大したことではなかった。
雪風を防ぐ屋根がある。壁がある。薪をくべ、消えることのない火のそばで眠る。これをどれだけ、待ち侘びたことか。
誰かを招くのは初めてだと、二瓶は呟いた。
それは光栄だと返すと、彼は濃い口髭の下で一瞬口の端を緩めたが、すぐに仏頂面に戻り、
「客人はそこに座れ」
と、ぶっきらぼうに言った。
促されるがまま、小屋の中心に設けられた炉の前に腰を下ろし、添木で固定していない方の足を曲げ、胡座を掻いた。尻の下の敷藁はひんやりと冷たいが、硬くなった雪の上に座るよりもずっといい。
火が灯ると、寒さはすぐに感じなくなった。
二瓶は、精がつく豪快な料理をいくつか振舞ってくれた。仕留めた熊の新鮮な肉を食うのは初めてではなかったが、狩人と会話をしながら食事をするのは初めてだった。
燃え盛る火を挟み、二瓶は色々な話を聞かせてくれた。熊の個性から、リュウの話、二瓶が若いころの話……そうやって話題は枝分かれして広がっていき、自然と肩の力が抜けた。
特に、山の話は興味をそそった。
北海道は人々が営むにはまだまだ不毛な大地だが、山は本土と変わらず、広大な自然と脅威に溢れていることを思い知った。
春には生命の息吹に胸を躍らせ、夏は太陽の眩しさに生を感じる。秋には実りに感謝し、冬は剥き出しの厳しさにも負けぬと覚悟する……そうやって生きてきたのだ、二瓶も、自分も。母なる大地がはぐくんだ山は、たとえ生まれた場所や年が異なっても、猟師や、マタギにとって共通する生涯そのものである。
聖域であり、死を迎えるにもふさわしい場所だ。
二瓶を知れば知るほど、戦場ではなく山で死にたいと強く思った。
ぐらぐらと煮立つ飯盒から最後の血の腸詰がなくなり、軍帽を脱ぎ、心の奥底にあったわだかまりを絶つように火に投げ入れてからは、一層清々しい気持ちになっていた。
「礼を言う。今夜はぐっすり眠れそうだ」
ぽつりと呟いて、鼻息を吐いた。
「なんだ、眠れていなかったのか」
「ああ。戦地で見てきたものが、最近また、そのまま夢に出る」
「ほう。それは悪夢だな」
「眠るのが厭になる時があった」
「俺も夢は見るぞ」
「どんな?」
ちらつく火から視線を上げて二瓶を見据えた。油で濡れた指を舐めて、二瓶は続ける。
「狼とやりあう夢だ」
「夢の中で、あんたは勝つか?」
「それが、いつも途中で終わるのだ。狼の目を覗き込める距離になって……そこで目が覚める。夢の中でさえ焦らされるとはな」
「それは、もどかしいな」
「夢の続きはいつ見られることやら」
緋色の波に呑まれ、軍帽は、もうほとんど形を留めていなかった。火が勢いを強め、薪が乾いた音を立てて弾け、敷藁に伸びる二人分の影が踊るようにうねる。
「あんたなら夢の続きを見るより先に、実際に仕留めるだろう」
そう言うと、一拍置いて二瓶は声に出して笑い、自身もつられて笑った。
猟師の営み――土と、血と、獣のにおい――が染み付いた空間に、心は穏やかになっていた。
銃声は、何発続いただろう。残響はいつまでも鼓膜を揺さぶった。
いつしか風は途絶え、果てしなく続く冬の景色は、色も音もなくなった。不気味なほどの静寂に胸を掻き乱されながらも、重い身体を引き摺り、積雪に残った三人分の足跡を追って、ひたすら歩き続けた。
身体が業火に焼かれているように熱いのは、矢傷から入り込んだ毒がまだ体内に残っているからなのか、救命のためにと、アイヌの少女によって腿の肉が一部深くえぐり取られたことによる痛みなのか、わからない。
木々の間を通り抜け、開けた場所に出て、まばらに立つ人の中に二瓶がいないのを見て、すべてを一瞬で悟った。
朽ちた大木に、崩れ落ちたように凭れている者こそ、彼だった。
頭の中が真っ白になり、荒い呼吸を繰り返して、ひゅうひゅうと喉を鳴らし、大木まで歩を進めた。
それから……どれくらいそうしていたことか。
恩人である少女に声を掛けられるまで、杖代わりの木棒に寄り掛かり、二瓶の骸の前に佇んでいた。
彼の首根から流れ出た血潮が、新雪を徐々に赤く染めていった。
彼が焦がれた山に、生命が染みていく。魂を駆り立てた熱い夢は終わったのだ。
「これが、あんたが望んでいた理想的な最後か」
魂の終わりか――。
目頭が熱くなって、目を閉じる。答えてくれる者はもういない。
冷たい風が一陣吹き抜け、沈黙が降り注ぐ。一人の猟師の生きた証を呑みこんで、荘厳な世界に、静かな夜が訪れようとしている。
――山はいいぞ、谷垣よ。
山をこよなく愛する男が、嬉しそうに言っていたのは、ちょうどこんな風に、空の果てで鮮やかな朱色が夜の帳と混じり合い始めた頃だったのを思い出した。
ああ。願わくば、どうか、彼の魂に安息を。