ノウム・カルデアにテスカトリポカが召喚されて日は浅いが、わたしは、彼に警戒心も疑心も抱いていなかった。
もちろん、第七異聞帯での命運も、彼の支配する楽園での最後の死闘も覚えているが、彼がわたしに対して敵対心を抱いていないとわかった以上、警戒する必要もなければ、疑うこともないのだ。
他のサーヴァントと同じく、テスカトリポカと良好な関係を築きたい。そのためにはまず神に敬意をはらい、理解することが必要だが、わたしがテスカトリポカについて知っていることは少ない。神性も、彼を敬っていたメシーカ人の信仰についても、詳しくはわからない。多神教であるアステカ文明において、随一の戦神であり、最高神でもある彼が、神々の中で最も規範的で平等であり、公平ということしか知らない。
なので、少しでもテスカトリポカのことを知ろうと、汎人類史に伝わっているアステカ文明や人身供儀についての資料や研究データをダ・ヴィンチちゃんにタブレット端末に送ってもらい、こうして熟読している。
テスカトリポカを知るうえで欠かせないのは、彼自身が祭神である、アステカ太陽暦の五番目の月に行っていたトシュカトルの祭祀だろう。
毎年祭祀が終わってすぐに、翌年に向けて準備をはじめたそうだ。
まず、捕虜となった戦士の中から容姿や体格が最も優れた若者を厳格に選別する。
選ばれた者はその日からテスカトリポカの化身として育てられる。詩や音楽を学んで教養を深めるだけでなく、言葉遣いや振る舞い方といったことまで細かに、徹底的に教育される。いつどこへ行こうとも常に八人の従者をそばに置き、神の装束を纏って人々の前に顕現し、祈りを受ける。格別な扱いを受けて育てられた戦士は一年掛けて「神」となり、祭祀が近くなると女神の依り代である四人の娘を妻として娶る。
そして祭祀当日に神殿へ行き、心臓を太陽に捧げる――それは人々の祈りを昇華させるものでもあった。神となった戦士の死によって、文明に安寧が約束されるのだ。
当時のメシーカ人にとって、死は安寧をもたらすものだった。人身供儀という神聖な宗教的伝統は、世界を生みだした神への祈りが成す、純然たる揺るぎない信仰だった。
戦神に敬意と畏怖の念を抱き、崇拝していた戦士たちもまた、強い信念を持っていた。老いも若きも勇敢に煙塵に身を投じた。戦いに殉ずることを誉とし、テスカトリポカに崇高な魂を捧げたのだ。
生きることとは死ぬことであり、命とは捧げるものであり、死は恐れるものではない。それが彼らの死生観だった。そうして信仰は続き、文明は栄え、生命は巡り、魂は脈々と受け継がれていったのだ。
現代に生きるわたしとはまったく異なる価値観だ。信仰とは、時に想像を絶する。
情報の嵐に呑まれてめちゃくちゃにされ、少し休もうと、大きく息を吐いてタブレット端末の画面から顔を上げる。
「勉強熱心だな」
すぐうしろから声がして、心臓が口から飛び出そうになった。
声も出せずに、弾かれたように振り返ると、テスカトリポカが腕を組んで立っていた。
「い、いつからそこに?」
幸い口から出たのは心臓ではなく、ひっくり返った声だった。
「つい十分ほど前かな。あんまりにも集中しているものだから、声を掛けずにいた」
テスカトリポカは楽しそうに言った。誰かが部屋に入ってくる気配はなかったが、全能である煙る鏡は、どこへでも現れるのかもしれない。
「気が付かなくてすみません」
「気にするな」
「わたしの部屋に来たってことは、なにか用事があるんですよね?」
「なに、大した用じゃない。さっきの戦闘でおまえが負った傷がどうなったのか気になってな」
「それなら、大丈夫です。ほら」
テスカトリポカに包帯の巻かれた左腕を見せる。
必要な素材を集めるための戦闘で、飛んできた破片で左の前腕を切った。帰還後にすぐに手当を受け、今は痛みも引いている。血はかなり出たが、傷は浅かった。
「適切な処置を受けたようだな」テスカトリポカはわたしの手首を掴んで引き寄せて、包帯の巻かれた前腕をまじまじと見た。「それならいい」
サングラスのレンズの奥で、テスカトリポカの眸がタブレット端末に向いた。
それに倣って、画面に顔を向ける。「あなたのことを、ちゃんと理解しようと思って」
「それは殊勝なことだ」
「アステカの人々は、すごいと思います。誰もがあなたに命を捧げることを誇りに思っている。あなたが最も嫌う「惰性のままに生きる人」は誰ひとりとしていない。そんな人たちだから、あなたはきちんと約束を守るんですね」
触れていなかった画面からふっと燈が消えた。
「戦士がオレに心臓を捧げて民を護ってくれ、忘れ去らないでくれと祈るのなら、オレはその願いに応える。オレは決して誓いは破らない。勇敢に戦って敗れた者はオレの楽園に招き、ひとときの休息を与える。戦った者は讃えられ、等しく報われるべきだからな」
テスカトリポカを見上げる。天井から差す白い燈を浴びる彼は、昂然としている。
「あなたがここにきてくれて、よかった」
「オレは戦う者を優遇する。マスターが戦う選択をする限りは、そばにいるさ」
「わたしは戦うよ。逃げないし、目も逸らさない」
彼の涼やかな眸に、一刹那親しみが浮上する。
「それならば、オレはおまえと共に戦おう」
胸の下で、心臓が熱く脈打つ。ふたりの間で、小さな信頼感が芽生えた。