三ヶ月振りに遠征から帰城したオウケンが土産に買ってきてくれたのは、貴腐ワインだった。
世界は広いといえども、貴腐ワインは地上の或る北国でしか作られない、希少価値の高いワインだ。
国沿いで混ざり合った二つの川が織りなす絶妙な気候が奇跡のワインの元となるブドウを育て、貴腐ワインの由来ともなるカビを生み出す。カビに侵食されたブドウは水分だけが抜け、熟れると糖度が凝縮される。栽培から発酵、熟成にかけて、他国では決して作ることのできないワインは、風味豊かで、雑味が一切なく、舌の上で甘くとろけ、喉元を灼くようにアルコール度数が高い。
そんな、滅多にお目に掛かれない極上のワインが今、目の前にある。
「兄さんが好きかと思って」
兄たちにしか見せない懐っこい笑顔でそう言った弟を、私は感謝の意を込めて強く抱き締めた。
「オウケン、今夜は一緒に飲みましょう」
ボトルを掲げると、オウケンは並びのいい白い歯を見せて笑った。
折角だからと兄者も誘った。弟と顔を合わせたのは三ヶ月振りだ。積もる話もあるだろう。兄弟三人で飲み交わすのは、いつだって歓迎だ。
色濃い夜のとばりが降りたあと、食堂に集まり、いつもの席に各々腰を下ろした。ボトルのコルク栓を抜き、磨き抜かれた三つのゴブレットに中身を注いでいる間も、熟成された芳醇なブドウの香りが鼻先を擽った。
「いい香りだな」
兄者はゴブレットを鼻元に手繰り寄せ、瞼を半分下ろした。そして一口含んで、一拍置いて「美味い」呟いた。幅広の口の端が僅かに持ち上がっている。滅多に酒を飲まない王もお気に召したらしい。
「はじめて貴腐ワインを飲みましたが、まさか、こんなに美味だとは」
オウケンはゴブレットの中を覗き込んで熱っぽく言った。いつも部下たちとエールを飲むことが多い騎士団長も、貴腐ワインの虜になったようだ。
「そういえばオウケン、兄者へのお土産はなににしたんですか?」
口元でゴブレットを傾けながら問う。
「兄者にはコンパスを贈りました。ずっと使っていたものが壊れてしまったと聞いたので」
「え、兄者、コンパスを使うことがあるんですか?」
目を丸くさせて兄者を見る。地底にあるこの国で、ましてや王宮にいる間、コンパスを使う必要はないだろうに。
「ああ。地上に赴く際に使っていた。退屈な馬車の中で針が動くのを眺めているのも面白いものだ。考え事をする時にも見詰めることが……なんだデスパー、意外か?」
「意外です。ん? 待ってください、もしかして……子供のころに私が贈ったものをずっと持っていたとか?」
兄者は吐息で笑って頷いた。なんだか気恥ずかしい。
「兄者のコンパスを持って、いつか三人で地上を外遊したいものですね。私は南に行ってみたいです。海を見てみたい」
オウケンはゴブレットを傾けた。突出した喉仏が上下に大きく波打っている。
「海ですか。いいですね。南の海は最も透き通っているといいます。暖かくて食べ物も美味しいですから、きっと長居したくなるでしょうね」
照りつける太陽、珊瑚礁、魚の群れ、潮騒の調べ……未知なる大海原を想像して、うっとりと溜息を吐いてワインをあおる。
「兄者はどこに行ってみたいですか?」
弟ふたりからの熱烈な視線を受けて、兄者はゆっくりとテーブルに頬杖を突き、顎を乗せた。
「お前たちと一緒ならば、どこでもいいさ」
穏やかな声だった。柔らかな笑みだった。ここにいるのは冥府の王ではなく、私たちの愛おしい兄だった。
「では、次の年にでも、三人で海に行きましょう」
テーブルの真ん中で燭台の先に灯った火が瞬いて、オウケンの精悍な顔立ちを赤く濡らした。弟は、今にも泣き出しそうに見えた。
「その時は多忙を理由にしないでくださいよ、兄者」
「海は遠いだろう。オウケンから貰ったコンパスが必要だな」
兄者の長い骨張った指がゴブレットを包み込む。尖った爪は火の色を吸って、光沢を帯びている。
誰も「いつか」という言葉を使わなかった。私たちは、果たせぬ約束を交わすのは嫌いなのだ。
胸がどうしようもないほど熱いのは、喉を焦がすワインのせいではない。
冥府の長い夜は、甘いブドウの香りがする。