馬をくれ、馬を。代わりに我が王国をくれてやる。
――ウィリアム・シェイクスピア
「冥府金貨二十万枚でいかがでしょう?」
馴染みの商人はそう言って歯並びのいい白い歯を見せて笑った。
「冥府金貨二十万枚?」
聞き間違いかと思って復唱すると、商人は愛想のいい笑顔を貼り付けたまま「ええ、冥府金貨二十万枚です」言った。
冥府金貨二十万枚といったら、莫大な金額だ。欲しいものはなんでも買えるどころか、一生安泰だろう。
「悪くない額ですね」
顎を摩りながら答えると、隣で、先ほど商人から買い付けた白磁の壺を抱えた隊長が弾かれたように私を見た。彼は黙ったままだったが、言いたいことはわかる。「デスパー様、本気ですか?」隊長はそう言いたいのだ。
世界中の貴重な品々を扱う名うての商人が大金を積んででも欲しがっているのは、私の愛馬の白王だ。
真珠色の毛並みに、豊かな鬣、雄々しい胸、筋肉の詰まった長い四肢と、感情豊かな長い尾……気性は荒く私にしか懐いていないが、白王は名馬だ。疾風の如く駆ける姿は私に似て美しい。
輝く金貨の山を想像して涎が出た。「おっと」慌てて袖で口元を拭う。
曳いていた白王の手綱を握り直すと、白王は頭を振って小さく鳴いた。それから落ち着きなく足踏みをした。不安なのだろう。
「どうどう」
白王の首を撫でてやると、愛馬は落ち着きを取り戻した。
「……それで、譲っていただけますか?」
商人が巻いている白いターバンごと、頭が傾いた。商人の視線は、ちらちらと白王に向けられている。
「そうですねえ……」
白王と隊長の間で、目を閉じてゆっくりと鼻から息を吸う。そして、瞼を持ち上げ、眸に期待を浮かべている商人を見る。
「残念ですが、いくら大金を積まれても、白王を譲ることはできません」
商人の彫りの深い整った顔がみるみるうちに蒼褪めていく。彼とは付き合いが長いが、こんな顔を見るのははじめてだ。
「お、お待ちください、それならば……」商人は言葉を詰まらせ、咳ばらいをした。「倍。倍出しましょう。ですからどうかその馬をお譲りください」
「申し訳ありませんが、それはできません。白王は私の大切な愛馬です。この子には、金貨以上の、かけがえのない価値があるのです」
「その馬にそれほどの価値があると申されますか。あなた様が、たかだか馬一頭に巨額の富を手放すとは……」
商人は深い溜息を吐いた。ふっと笑いが漏れる。
「戦場で死んだ或る国の王は、最期にこう言いました。『馬をくれ、馬を。代わりに我が王国をくれてやる』と」
「……は……?」
商人は気の抜けた声を上げ、口をぽかんと半開きにして私を見詰めた。一拍置いて、隣で、軍馬の価値を知っている隊長が小さく笑った。
「さて、いい買い物ができました。またよろしくお願いしますね」
ウインクをひとつして、壺の代金を商人に渡す。
「いやはや、この私が買い付けることができなかったのは、この馬がはじめてです」
そう言って肩を竦めた商人の苦笑いは、金貨二十万枚の価値があった。