汝の死は我が命

 自我を取り戻し、人間に戻ったオウケンと別れてから数週間が経つ。

 峠をあとふたつ越えれば、祖国の入口である地獄の門が見えてくるはずだ。

 木々が鬱蒼と繁る森の中は、時々どこかで鳥が囀るだけで、静かだった。拓かれた山道を歩く白王の息がぜえぜえと切れる一方、斧槍を携えて白王に歩を揃えて隣を歩く隊長は、息ひとつ乱れていない。

「デスパー様、お待ち下さい」

 隊長が不意に立ち止まった。それに倣って白王の手綱を引いて歩みを止める。

「どうしました?」

 隊長はなにも言わない。彼は頭上を見ていた。

「隊長……?」

 彼の視線を追うように顔を上げると、太い枝の半ばで、ふたりの男が縄で首を括られ、並んでぶら下がっていた。死体は風もないのに振り子のように小さく揺れている。革の鎧を纏った左側の男の身体が緩慢に回って、背中を向けた。

 おぞましい光景に目を疑う。

「隊長、これは……!」

「白王、デスパー様を連れてここから下がれ」

 隊長が斧槍を構えて辺りを見回すのと、けたたましい雄叫びが静寂を裂くのはほぼ同時だった。

 真横の斜面から、斧を構えた半裸の汚らしい禿頭の男が滑り降りてきた。賊だと気付いた時には、三人の男たちに取り囲まれていた。

 咄嗟に隊長を見る。彼は動じることなく、示指を頭上の死体に向けた。

「これをやったのはお前たちか?」

「ああそうだ。ここを通ろうとした貴族と騎士さ。お前らもあんな風に木にぶら下がりたくなかったら、金目のものとその馬を置いていきな」

 私のそばで、熊の毛皮を頭から被った男がニタニタと笑う。

 隊長は指を下ろし、斧槍の柄を両手で握り締めた。

「死にたくなければ即刻立ち去れ」

「ああ? 状況がわからねぇみたいだな、てめぇは生きたまま顔の皮ァ剥いで吊るしてやる! おいおめぇら、やっちまえ!」

 熊の毛皮の男が叫んだ。同時にふたりの男が隊長を挟み込むようにして、斧を振り上げて斬りかかった。

「隊長!」

 白王の手綱を握り締める指先から血の気が引いた。

 賊は隊長のように大柄で、体躯逞しい。いくら武に長けた騎士とて一筋縄では――。

「遅い!」

 隊長は目にも止まらぬ速さでひとり目の胴体を薙ぎ、そのまま斧槍の柄頭で振り下ろされた斧を受け止めて弾くと、ふたり目の男の肩口から腹の辺りまで袈裟懸けに斬りつけた。

 ギャッと悲鳴が上がった。一瞬の出来事だった。

 怯えていた白王が嘶き、竿立ちになった。バランスを崩して落馬し、背中を強く地面に叩き付けられて息が詰まったが、痛みは大して感じなかった。心臓が胸の内側で大きく速く拍動していた。血が沸騰して、全身を逆流しているようだった。片手を突いて起き上がると、熊の毛皮の男が血走った目を私に向けていた。

「くそっ! こっちにこい!」

 男から漂う饐えた臭いが鼻先を掠める。腕を掴まれ、強引に引っ張られる。「離してっ!」

「そのお方に触れるなっ!」

 それは聞いたことのない隊長の怒号だった。温厚な性格の隊長が発したものとは思えないほどの灼熱の怒りに満ちた声は空気を震わせた。周りの木々から鳥が羽ばたいた。

「……っ……!」

 熊の毛皮の男は慄いたのか、私から手を離した。

 隊長を凝眸する男の(まなこ)には、確かな恐れがあった。恐怖というのは全身に回るのが速い。そうなると、人は冷静な判断を欠く。

 斧槍を構えた隊長が走ってくる。熊の毛皮の男が二、三歩退き、慌てたように腰に佩いていた剣を抜き、私に向けて振り上げた。

――斬られる。

 反射的に両手が顔の前まで持ち上がった。肉を斬り、骨を断つ刃の前では無意味だというのに、身構え、やはり反射的に目を瞑った。覚悟して歯を食い縛る。瞼の裏に、兄の背中と弟の笑顔がフラッシュバックする……。

 私は、まだ死にたくは――。

 ぐちゃりと湿った音がして、頬に、生暖かい液体が降り注いだ。

「……っ、ぅ……」

 恐る恐る目を開けると、熊の毛皮の男の頭がなくなっていた。頭を失った胴体は剣の柄を握り締めたまま腕をだらりと下げ、左に右にとふらつき、やがてうつ伏せに倒れた。

「デスパー様っ……」

 目の前に、息を切らした隊長が立っていた。兜と鎧は返り血に染まり、手にした斧槍の刃から、粘着質な血が糸を引いて滴り落ちている。

「お怪我は、ございませんか」

 騎士は跪くと、座り込んだ私に問うた。兜の視孔から、普段決して見えることのない眸が力強く私を見詰めていた。

「……大丈夫、です」

 放心したまま答えると、隊長がほうっと大きく息を吐いた。

 隊長から外した視線を足元にやると、広がった血溜まりの中で、悪臭を放つ肉塊が転がっていた。

「デスパー様……返り血が……」

 隊長の手が頬に触れる。親指の腹にそっと頬を拭われた。自分は返り血まみれだというのに、彼は私の身を案じてくれていた。たった今三人の悪人の命を摘み取った手は大きく、あたたかい。人を斬ることに慣れた手だとは思いたくなかったが、彼は武人だ。騎士なのだ。

 隊長の手を借りながら立ち上がり、汚れたブレーもショースもはたかずに首を巡らせる。

 すぐそばで、腹を斬られた男が目を見開いたまま絶命していた。裂けた腹から零れた臓物が、血の海の中で湯気を立てている。

「う……」

 腹の真ん中が熱くなって、苦いものが喉元まで迫り上がった。口を押さえるが、堪えきれなくて足元に嘔吐する。生理的な涙が湧き、鼻水が垂れた。

 胃の中のものをすべて吐き出して、手の甲で口元を拭う。甘酸っぱい吐瀉物の臭いに、濃い血の臭気が混ざる。

「血の臭いを嗅ぎ付けて狼がきます。早く立ち去るべきですね」

「隊長、その前に、お願いがあります」

「……なんでしょうか?」

 視界はまだ涙で滲んでいる。瞬きを繰り返しながら、頭上で揺れている死体を指差す。

「彼らを下ろして、弔いたいのです。こんな惨い仕打ちを受ける人たちではないはずです」

 隊長は頭を反らして死体を見上げた。

「そうですね。このままでは、いけませんね」

 隊長が縊り殺された貴族と騎士――鎧に刻まれていた家紋から、西の小さな国の貴族だと判明した――を下ろしている間、打ち捨てられた賊の死体の方は見ないようにしていたが、私を掴み損ねた死がうなじを撫でてくるので、一瞬だけ死体を見やった。

 どこからか飛んできた銀蠅が、濁りはじめた眼球の上を這い回っていた。それを見てまた吐いた。

 貴族たちの死体を埋葬し終わり、その場を去ってしばらくすると、遠くから狼の遠吠えがした。

手綱を握り直し、首を巡らせる。

 静けさに満ちた森は、善人も悪人も問わず、ただそこにある死をありふれたものとして受け容れ、次の命に繋ごうとしていた。

 一陣の風が吹いて、木々がざわついた。

 素早く訪れる死のように、昏い夜がくる。