零れ落ちる平等

 書物を読むのも好きだが、中庭で遊ぶのも好きだ。

 最近気付いたことだが、城の中庭には、色んな昆虫がいる。蟻や蝶といった虫がほとんどだが、樹液を吸いに集まる虫の中には、見たことのないものがいる。その時は、捕まえて空箱に入れて観察し、学匠から借りた図鑑にいるか探したりもする。

 この間は兄者と珍しい甲虫を捕まえた。虹色に輝く甲皮を持っていて、見る角度によって色が違って見え、宝石のようで美しかった。ひっくり返ると中々起き上がれない少し鈍臭いやつで、砂糖水を飲ませたあと、逃がしてやることにした。

 虫は僕の指先で翅を広げて飛び立ち、玉虫色にきらきらと輝いて、低い羽音を立ててゆっくりと飛んでいった。

 ここしばらく中庭に出ていなかったが、今日は久し振りに兄者と中庭に行った。

 いつものように花壇から虫を探すことにした。奥行きのない幅広の花壇だが、ここには花の匂いに誘われてやってくる虫たちがいる。

「……あれ?」

 瑞々しい花弁を広げる花の群れの真ん中で咲いている一本の白百合の茎に、見たことのない塊があった。

 僕の親指の長さほどある黒と黄色のまだら模様の楕円形のそれは、白い糸で繋がって、斜めに傾いて茎にくっついていた。花の芽にも見えるそれは、全体的にぱんぱんに膨らんでいる。上部は丸みを帯びた角のような突起がちょこんと生えて二股に分かれていて、塊の中央から下部にかけて、均等な蛇腹が層になっている。図鑑で見た細長い巻貝のようにも見えるが、こんな奇妙な貝殻は知らない。そもそも、こんなところに貝殻があるわけがない。だが、虫には見えない。これは触覚や足が生えていないし、動いていない。

「兄者、これはなんですか?」

 じょうろで花に水をやっていた兄者を呼ぶと、兄者はじょうろを抱えたまま来てくれた。兄者は隣にしゃがみこんでそれを見ると「蝶の蛹だな」言った。

「サナギ?」

「幼虫が成虫になる前の状態のものだ。ここから蝶が出てくる」

「えっ、ここから蝶が?」

「ああ。お前が嫌いな芋虫が、蝶になる前にこうして蛹になる」

 この不思議な塊が芋虫だったとは驚いた。芋虫は気持ち悪いので嫌いだが、これは平気だ。むしろ、蝶が出てくるというのなら、興味がある。

「兄者、蝶はいつ出てくるんですか?」

「さあ、どうだろうな。いつ羽化するのかはオレにもわからないが、翅の模様が見えているから、おそらくもうすぐじゃないか?」

 兄者は、蛹から蝶になることを「羽化」というのだと教えてくれた。

その日、昼食を食べて、またすぐ兄者と中庭に出た。どうしても、蝶の羽化が見たかったのだ。

「あ!」

 蛹の二股に尖った先端から、なにか突出していた。急いで花壇に駆け寄った。

 飛び出していたのは、蝶の頭と折り畳まれた脚だった。蝶は身体を小さく前後させながら蛹の殻を押し上げると、茎に足を引っ掛けて、ゆっくりと這い出てきた。細長い腹は生き生きと波打ち、しわくちゃに縮こまった翅は湿っているように見えた。

「蝶の羽化を見るのははじめてだ」

「僕たちは、運がいいですね」

 兄者と蝶を見守った。蝶の濡れたしわだらけの翅は少しずつ伸びていって、徐々に色や模様が浮かび上がってきた。黄色い翅には、黒い縦縞が規則的に並んでいて、間には青やオレンジといった模様が散らばっている。ステンドグラスのようだと思った。

 どれくらいそうしていただろう、蝶の翅が完全に乾き、広がった。蝶は美しい翅を羽ばたかせると、ついに飛び立った。

 低い位置を飛んでいた蝶は僕の肩に止まってから、ひらひらと中庭を優雅に飛び回り、やがてどこかに飛んでいった。

「綺麗でしたね」

「そうだな」

 兄者と顔を見合わせる。生き物の神秘を目の当たりにして、一握の興奮が胸にあった。なにより、貴重な羽化の瞬間を兄者と見られたのが嬉しい。

「あの蝶が生き抜いて、やがてまたどこかで卵を産んで、新しい命が産まれる。命はそうやって巡っていくんだ。自然界には生存競争がある。お前が見て悲鳴を上げる芋虫も、どこかの蝶が懸命に繋いだ命だ」

「芋虫は嫌いですが、それは覚えておきます。命を繋ぐのは大変ですね」

 兄者は「芋虫も可愛いもんだろう?」ニヤリと笑った。

「命は平等なのに、皆が生きられないなんて、なんだか不平等ですね」

 抜け殻になった蛹を見詰めて呟くと、兄者の笑みは寂しそうなものになった。

――兄者、どうしてそんな顔をするのですか。

 その時はそう訊くことができなくて、ただ兄者を見詰めることしかできなかった。 

 命とは平等である。

 幼いころにそう学び、絶対的なものだと信じて疑わなかった。

 それが現実を知らぬ甘い考えであったことを思い知らされたのは、戦場に出るようになってからだ。

 武の才がない私は参謀として戦場に立つことになった。幕舎の中で地図を広げ、随時戦況を把握して的確に判断を下し、策を練り、進言する……私の進言ひとつで将が動き、それに大勢の兵が従う。 そして、戦って命を散らす。

 そのことに気付いてからは、兵稘ひとつ動かすことすら苦悶した。犠牲が出ないようにすることは不可能だった。どう足掻いても人が死ぬ。

 心をすり減らす日々は続いた。眠れぬ夜もあった。眠れば、生きられなかった者たちの骸が夢に出てくるからだ。

 何度目かの戦が終わり、帰城した或る夜、たまらなくなって兄者の寝所を訪った。

 酔った勢いのままに共寝を頼み込むと、兄者はなにも言わずに私を腕に抱き、背中を撫でてくれた。その夜は、ただ抱き合っていたかった。兄者の体温に縋り、息遣いに安堵し、鼓動を感じていたかった。

「認めてしまうのが怖いのです」

 ベッドの中で、兄者の胸元に顔を埋めたまま言う。

「命が不平等であることにはとっくに気付いているのに、それを認めてしまうのが怖いのです」

 閉じていた瞼を持ち上げると、兄者が身じろぎした。背中に回っていた腕に微かに力がこもる。

「正気を保つために、いつかにあなたと見た蝶の羽化を思い出すのですよ。命は巡るものだと言い聞かせるのです。生き延びた者が次の世代に命を繋いでいくと。それが、この世の在り方であると。そうでもしないと、私は」

「デスパー」

 名前を呼ばれて、言葉を切る。

「……すまない」

 一拍置いて、兄者の吐息混じりの声が薄闇に零れた。弾かれたように顔を上げると、目の前がじわりと水っぽく歪んだ。また俯いて瞼をきつく瞑り、歯を食い縛り、必死に嗚咽を堪える。

「あなたが謝る必要なんて、ないのです」

 兄者はなにも言わず、夜が明けるまで私を強く抱いたままだった。

  兄者の優しさが沁みた夜から、数えきれないほど夜と朝が廻った。

 散々苦しみ、散々涙を流してきた。それは兄者も同じだろう。

 今、私たち兄弟は覇権を巡って父上に叛逆し、革命を為そうと大戦に身を投じている最中(さなか)だ。

 私たちは真っ直ぐに、冷厳と前を見据え、冥府の未来のために戦わなければならない。

 あの夜、兄者の腕の中で覚悟を決めた。私は最愛の兄弟を支えるために戦場に立つことを選んだ。この先どんなことがあっても、私は兄弟たちと一蓮托生だ。今までも。これからも。

 「……おや」

 ふと顔を上げると、開け放った幕舎の入口から、いつの間にか一匹の蝶が入り込んでいた。

 なにげなく片手を上げて示指を蝶に向けてみると、蝶は部屋の中を舞ったあと、私の指先で翅を休めた。

 ゆっくりと開いたり閉じたりする黄色い翅には黒い筋が走り、筋と筋の間には、鮮やかなオレンジと青が波紋のように広がっている。

「私はもう大丈夫ですよ」

 蝶に向けて一言告げる。

 蝶はそっと指先を離れると、垂れ下がった幕の内側を沿うように飛んで、外へ飛んでいった。