遠き夢のサルベーション

 父は躊躇いもなく人を殺す。

 今日は炭鉱夫が四人殺された。父は築き上げた死体の山を見下ろしながら、血の滴る黄金のゴブレットをあおっていた。その様を物陰から覗き見て、震えが止まらなかった。

 王というのは国の要だ。民を愛し、国の安寧を護るものだ。それなのに父は国民を自らの手で殺し、おぞましいことに、流れた血を啜る。

 父が怖い。

 父が嫌いだ。

 青年期を前にして、突然掌から青白い稲妻が弾けた時、神である父の血を濃く引いていることを自覚した。

 父のような剥き出しの残虐性が己の中にも存在する気がした。

 父によく似た己の顔が嫌いになったのはそれからだ。

 鏡を見るのが嫌になって部屋中の鏡を叩き割ったが、胸に巣食う父に対する恐怖や、自身に対する嫌悪感は粉々にはならなかった。自分も父のようになるのではないかという恐れが、羊皮紙に落ちたインクのように、じわじわと胸を侵食していった。

 怖くて、悲しくて、夜な夜な枕を濡らした。

 ――父のようにはなりたくない。

 憎悪、恥、悲観、絶望、諦念――感情が胸の中で混ざりあってぐちゃぐちゃになる。

 嗚咽を堪えると、ベッドに横たえた身体が震えた。背骨を丸めて足を引き寄せ、毛布の中で胎児のような体勢で目を固く瞑る。聞こえるはずのない父の笑い声が聞こえてきた。

 その日もろくに眠れないまま朝を迎えた。喉がひどく渇いていた。朝食の時間になっても、部屋から出たくなかった。身だしなみだけ整えて、ベッドに腰掛け、寝不足で痛むこめかみを押さえる。

「兄さん?」控えめなノックのあと、くぐもったデスパーの声がした。「入りますよ」

 ドアが開ききる前に、オウケンが飛び込んできた。

「兄者!」

 オウケンは駆け寄ってくると、足に飛びついてきた。

ドアを後ろ手で閉めて「ひどい顔ですよ、兄さん」デスパーは眉を寄せた。「また寝ていないんですか?」

「考えごとをしていてな」

 膝によじ登ってきたオウケンを抱き上げて座らせ、努めて平然と答えた。

「一晩中、考えごとですか」デスパーは物言いたげにじっとこちらを見詰めている。聡い弟だから、不眠の原因に気付いているかもしれない。

「兄者は、寝ていないんですか?」

「うん。眠れなかったんだ」

 オウケンの頭を撫でる。オウケンの髪は日向のにおいがした。

「じゃあ、今夜は僕が一緒に寝てあげます。兄者に本を読んであげます」

「オウケンは兄さんと一緒に寝たいんですよね」

「……オレと?」

「ええ。オウケンは兄さんが大好きですから」

 デスパーが口元に指を添えてくすくすと笑った。オウケンも健気に笑っている。涙が出そうになった。

「わかった。今夜は、一緒に寝よう」

 幼い弟を抱き締めると、小さな手に指を握られた。

 

 舌っ足らずに、オウケンは自分のお気に入りの絵本を読んでくれた。

 肘枕を突いてそれを聞いているうちに、だんだんと眠くなってきた。

「おしまい!」

 ぱたんと絵本を閉じて、オウケンはごろりと寝そべった。そして、絵本を枕に立てかけると「兄者、今夜は眠れそうですか?」と幼い顔に憂いを浮かべて言った。

 弟の頭を撫で、毛布を掛け直してやる。「眠れそうだ」

「兄者」

「うん?」

「兄者は今、悲しいですか?」

 不意を突かれて、眠気が薄れた。

「どうして、そう思うんだ?」

「言わなくても、わかります。今日、兄者はずっと悲しそうでした。兄者が悲しいと、僕も悲しいです」

 弟のあたたかい手が頬に触れた。

「兄者が嬉しいと、僕も嬉しいです。だから、笑ってください、兄者。悲しい気持ちは僕がやっつけてあげます」

「……オウケン……」

「僕は兄者のことが大好きです。世界で一番優しい兄者が、世界で一番大好きです」

「……ッ」

 幼く、拙い弟の言葉に目頭が熱くなる。鼻の奥がつんと痛くなって、目の前が水っぽく歪む。咄嗟に掌で目元を覆った。

「兄者? 泣いているのですか? 悲しいのですか?」

「悲しくない。……嬉しいんだ。ありがとう、オウケン」

 弟の手を包み込み、そっと握る。

 胸に沈殿していたどろどろに溶けたどす黒い感情が消えていく――。

 眠りの底から意識が引き上げられた。

 夢を見ていたのだと気付くのに、時間が掛かった。意識が完全に覚醒して、深く息を吸う。

 室内はぼんやりと明るい。おそらく昧爽のころだろう。

 隣でオウケンが眠っている。

 毛布を捲り、ゆっくりと身体を起こし、ヘッドボードに背中を預ける。

 仰向けの姿勢で静かに寝息を立てているオウケンを見下ろす。

 あの夜、己はオウケンに救われたのだ。

 あの夜、世界を敵に回してでも、命に代えても、愛する存在(オウケン)を護ると誓った。弟を愛している。誰よりも。

「ん………」オウケンの瞼がぴくりと動いて、持ち上がった。「……兄者……?」

「起こしてしまったか」

「……眠れないのですか?」

「いや、目が覚めただけだ。まだもう少し寝る」

 のろのろとぬくいシーツの海に戻り、毛布を被る。

「……兄者」

 手を握られた。オウケンの掌はあたたかい。指を交えてしっかりと握り返す。オウケンは身じろぎした。距離が詰まって、毛布の中で、身体の境界線が溶けあった。 

 夜明けの気怠い静寂がふたりを包み込む。

 生涯消えることのない愛情が、ふたりの間には在る。