オリジン×スカイシャリマン

 ニュー妖魔シティにある名店「SUSHI輪廻」のカウンター席で食事を始めて一時間と経たないうちに、市警察から殺人容疑の男の身柄を確保するよう出動要請がきた。

 唐突な出動要請は日常茶飯事のことであり、決して珍しいことではないが、Dレックスが玉子焼きを食べ損ねたことに酷く落胆していた。

『犯人は現在メインストリートを西に向け逃走中、黒のシボレー、米国のノースピスタナンバーYKP0528、犯人は銃を所持しています、至急応援を願います』

 耳に付けたイヤホンを通して、無線機からの情報が事細かに流れ込んでくる。けたたましいパトカーのサイレン音と、乗っている警察官の声が雑音もなくクリアに聞こえた。

「私とオリジンはメインストリートへ向かう、Dレックスは西へ先回りしてくれ」

 リーダーの指示にDレックスは更に肩を落とした。

「えぇ……オレひとりィ?」

「待ってくださいリーダー、Dレックスよりも(わたくし)の方が早いでしょう。私が先回りします」

「できるか?」

「ご期待に添えてみせましょう」

「……任せた。行くぞ、スーパー・シード出動(ロール・アウト)!」

「ハンゾウとバニーミントは休暇中だけどな!」

 Dレックスが叫ぶのが早いか、重なっていた影が分散し、月を背に空中に浮かんだリーダーと視線が離れた。

 それから三十分と経たないうちに犯人は無事逮捕され、街に平和が戻ったのだった。

「死傷者はゼロだ。君の冷静な判断のおかげだ、ありがとう、オリジン」

「いいえ、リーダーが私の進言を受け入れてくれたおかげですよ」

「なぁ、この後寿司は食わない感じ? オレ大将の玉子焼き食べたかったんだけど」

 路上に停まるパトカーの群れの中で呑気なのはDレックスだけかもしれない。赤いランプに照らし出されたDレックスの顔を見詰めて、リーダーは肩を竦めた。

「戻ってもいいかもしれないな」

「よし、じゃあ……打ち上げってことで!」

 白い牙を覗かせて笑うDレックスと、つられて微かな笑みを浮かべたリーダーが並んで歩き出す。その後ろに続いて、不穏が沈滞する路上を後にした。

「君には何度も助けられてきたな」

 ひとり酔いつぶれてカウンターに突っ伏して眠るDレックスの隣で、彼はぽつりとつぶやいた。それはとても静かな一言で、まるで独り言のようだった。

「……チームのためです」湯呑みを両手で包み込んで、あなたのためですという言葉を飲み込んでから答えた。「私自身が今まであなたに救われてきましたから。その恩返しのようなものですよ」

「君の意見はとてもありがたい。君は私以上に冷静沈着だ」寿司下駄に並んだ大トロを器用に箸で挟みこんで持ち上げ、リーダーは語を継いだ。「頼りにしている」

 薄桃色の肉厚な切り身が醤油に浸かるのをぼんやりと眺め、胸の中に沸いた熱い気持ちを抑え込む。

「リーダーはチェスをやったことはありますか?」

「……ん? ……いや、ない」

 頬張った寿司を咀嚼し、彼は不思議そうにこちらを見た。

「チェスは複雑です。常に三手先を見ないと相手に勝てません。といってもチェスボードを眺めているだけではいけません。相手にこちらの思考を読まれないようにしつつあらゆるパターンを分析し、相手の手の内を看破しなくては勝てない。一手誤れば詰んでしまう。作戦を練るのもこれに通ずるものがあると思うのです」

「君は博識だな。頭がキレる。その慧眼が私には必要なのだ」

「ありがとうございます。私も長生きしてきましたから。最も、ひとりでいた時よりも、こうしてあなたの下にいる今の方が経験豊富に過ごせてますがね」

「出会った頃の君は酷く冷めた目をしていたのを思い出すよ」

 リーダーの向こう側で、Dレックスがふごっと鼻を鳴らした。

「あなたの正義感と熱意に胸を打たれて……もうどれくらい邁進してきたでしょう。本当に、リーダーには感謝していますよ」

「ありがとう。そう言ってもらえると私も嬉しく思う」 

「お待たせしました」注文していた特選寿司が寿司下駄に載って運ばれてきた。天井からぶら下がるスポットライトの光を浴びて、端のイワシの握りが白銀に輝いている。

「さっきの殺人犯は終身刑は確定でしょうね」

 店主が去った後、徐に口を開いた。

「FBIが追っていたシリアルキラーとの見解もあるので、最悪死刑でしょう」

「監獄で贖罪、か」

「……彼が自分がしたことを反省すると思っているのですか?」

「反省もなにも、自分が如何に罪深いことをしたか自覚し、その上で罪を償うべきだ」互いの間にあったリーダーの拳が力むのを見逃さなかった。小刻みに震える拳を見据えて赤身の握りを頬張る。酢の香りが鼻に抜ける。シャリが甘い。

「中国の古い儒家が唱えた説に、こういうものがあります。『人の不幸を思いやる心は「仁」の糸口である。悪を恥じ憎む心は「義」の糸口である。 人に譲る心は「礼」の糸口である。善悪を判断する心は「智」の糸口である。 人にこの四つの糸口があるのは四肢が揃っているのと同じことである』と」

「……聞いたことがある。性善説じゃないか?」

「ご存知でしたか。要約すると『人は産まれながらにして皆善である。悪とは後天的なものなのだ』でしたね」

「人間達の思想は面白い。少し勉強していたことがある」

「ではこちらもご存知でしょうか? 『人の性は悪なり、その善なるものは偽なり』」

「性悪説だな」

「そうです。このふたつは相対しています。リーダー、あなたはどちらだと思いますか? 人の本性は善か、悪か」

「確か性悪説は、人が持つ弱さを悪と定義していたな……」彼は箸を置き、顎に手を添えて、視線を手元に落とした。「私は性善説の方が人の本性を語っていると思う」

「やはり、そうですか。あなたらしい」

「極悪人も皆生まれた時は無垢な赤ん坊だったのは間違いないだろう。そして或る時、或る者は生き延びるために悪行に手を染めたかもしれない。或る者は劣悪な環境から脱するために罪を犯したかもしれない。一方で、欲のために悪行を繰り返す犯罪者もいる。そう思うと人は愚かなのかもしれないが、どんな理由であれ考えを改め、罪を償うべきだと私は思うのだ」

「その厳格さ、感服に値します。あなたはまさに生まれながらにして善人ですね」

「君もな」

「ふふ、どうでしょう。今でこそ善人ですが、思い出してください。私はあなたに出会うまで、どんな悪事が目の前で起きようと飛び火がない限り素知らぬ顔をしてただ傍観していた男ですよ」

「昔観た映画の主人公がこんなことを言っていた」リーダーは置いた箸を再び利き手に持った。「『最高の教訓は過去の失敗から得ることができる。過去の過ちは未来への叡智だ』……古人が討論した人の本性についてを、現代にいる我々が討論しても仕方ないのかもしれないな」

「そうですね。ただ……先天的なものであれ後天的なものであれ、私にとっての善はあなたですよ、リーダー」

「ありがとう。オリジン、君は間違いなく善人だよ。私のチームに君は不可欠だ」

 瞼の裏で黒い光がちかちかと弾けた。

 それはしばらく視界の端に映り込んで消えなかった。

 リーダーの手元の寿司下駄に載った最後の大トロがなくなった。

 黒い影に似た「それ」を見るようになったのはいつからだろう。「それ」は始め形を持たない靄だったが、私は「それ」が日に日に形を成していることに気付いた。

 私がリーダーに対して温情を向ければ向けるだけ、「それ」は濃くはっきりと見え、いつしか、形も認識できるほどになっていた。

 今では、見えるのは自分の形をした別の「なにか」だ。

 私はそれを「幻影(ファントム)」と呼ぶことにした。触れようとしても煙を掴むかのようにすり抜けてしまうからだ。

 或る晩幻影はついに私に向けて囁くようになった。

「お前が善を語るな」

 においもなく、影もなく、ただ幻影は目の前に浮かんで私に侮蔑の視線を寄越している。

「お前が善人であればオレは生まれなかったのだ」

「……どういうことです?」

 パトロールの時にサウスモンド地区で一人になり、ついに私は意を決して幻影に訊き返した。

「なにが性善説だ、なにが性悪説だ。笑わせるな。お前に善はない。悪そのものだ。その証拠にお前は何世紀もなにもしなかったではないか!」

 咎めるように幻影は私に指を突きつけて叫んだ。

「ええ、そうです。私は世界を護るべき存在だったのになにもしなかった。ただ見ていただけでした。ゴゴゴGFの悪事も、世に降りかかる災厄も、すべて見過ごしてきた。自身に関係なければどうでもよかったのです」

 はっきりとてるわけもなく、ただ「幻影」は浮かんでいる。

「その力があればなんだって望むがままなのに、お前は何故スカイシャリマンに従う?」

 幻影がリーダーの名前を出してきたのには驚いた。、もしかすると、彼は私の……分身、なのだろうか。

 そうなると、リーダーに必要とされたいという渇望も、リーダーに対して抱いてしまったこの柔く蒙昧な感情も知られているのだろうか?

「リーダーは私に正義の心を教えてくれました。私はスーパー・シードという大義名分の下、あの頃の償いをしているのです」

「償いだと? 償えば赦されると?」

「それが私の、私ができる贖罪です。消えなさい、幻影(ファントム)

「お前が認めようとしないその感情がやがて憎悪に変わることだってある。ゆめゆめ忘れるな、お前に後ろめたさがある限り、オレは消えない。オレとお前は一蓮托生だ」

 幻影は口端を吊り上げてせせら笑った。

「私は後ろめたさなどありません。……消えなさい」

 一度目を閉じて再び開いた時には、幻影は跡形もなく消えていた。

(リーダーに対して湧いたこの気持ちがなんなのかくらいわかっているつもりでしたが……私がそれを認めたら、今後彼にどう接していいのかわからなくなってしまう)

――心がなかったらどんなに楽だろう。心さえなければ、こんなにも煩悶することもなかったかもしれない。

 ふと、顔を上げると日が傾いていた。

 無性に彼に会いたくなった。

 ウォール街で一番高いビルの屋上に降り立つと、探していた背中を見つけた。

「やっぱりここにいましたか」

 声には自然と安堵感が混じった。彼は聞こえていないのか、振り向かなかった。マントだけが風にはためいている。足元の影は長い。

「捜しましたよ、リーダー」

 隣から覗き込むようにして声を掛けて漸く、彼はこちらに気付いて「よく見付けたな」と口の端を持ち上げた。

「よくここに来ているでしょう?」

「知っていたか。私はここから見える景色が好きなんだ」

「街を一望できるからですか?」

 ゆっくり頷いてから、彼は正面に顔を戻した。微かな街の喧騒が風に乗って聞こえてくる。

 彼の視線の先で、太陽が燃え尽きようとしていた。聳え立つ高層ビルの窓ガラスが鮮やかな太陽の残光を吸い、緋色の空には徐々に夜の帳が降りていく。眼下ではネオンの明かりがぽつりぽつりと灯り始める。今日も、平穏な一日が終わる。

 彼方でうっすらと姿を現していた白い月が、少しずつ濃くなっていった。

「……月が綺麗ですね」

「ん? おお、今夜は満月か」

 バニーミントが辟易するくらい、この人が鈍くてよかった。

 腕を組んだまま微笑む彼の横顔を見詰め、私は浮遊したまま、ほんの少し、ほんの少しだけ彼と距離を縮め、顔を正面に戻した。

「私には、ここから見える景色は眩しすぎます」

 そうだ。ここから見える景色は私には眩しすぎるが、彼の隣にいなければこの美しい景色に気付かなかっただろう。そして、心がなくてはそのことにも気付けない。

 これからも、彼の隣に立っていたい。

 煌煌と灼ける空を見詰めて、心の底からそう強く望んだ。

 瞼の裏に浮かぶ幻影(ファントム)は、それを赦してはくれないようだが。