まぼろし

 その日、自宅にやってきたヒューズの右腕に、自慢の義肢はなかった。

「腕はどうした?」

「自分じゃどうにもできねぇくらい調子が悪くて、メンテナンスに出した。明後日にはピカピカになって返ってくる」

 ソファにどっかりと腰を下ろし、ヒューズは鼻面に皺を寄せて笑った。袖のないジャケットから、断端を保護する丸みを帯びたカバーが見えている。

「平衡感覚が狂っちまうぜ」

「私にできることがあれば手を貸そう」

「そりゃ助かる。ビール瓶の蓋が開けられなくて不便でな」

 それにと続けて、ヒューズはなにもない右側を見た。

「腕が疼く。幻肢痛ってやつだろうな」

「痛むのか」

「……まぁな」

 ヒューズは溜息を吐いた。皺の少ない顔に珍しく憂いが浮かんだ。こんなに弱った彼を見たのははじめてだ。とぐろを巻いた嗜虐心が鎌首を擡げたが、必死に抑え込んだ。

「幻肢痛がひどいのであれば、健側の手を鏡に映して動かす訓練をするといい」

「意外なアドバイスだな」

 両眉を持ち上げたヒューズと目が合った。褐色の眸は一瞬下を向いた。

「……なるほどな。経験済みってワケか」

「ああ。幻肢痛なら私にも経験がある」

 彼は私の左手を見ていた。

 私の左手の指は、一部が付け根から造り物だ。ヒューズの右腕と同じくステンレススチール製の指を取り付けているが、事情があって――自身の死を偽装するために切断したため――手袋で普段から隠している。

 ドクター・アレクサンダー・マクスウェル・ノックスという男を殺し、ドクター・ミハイル・コースティックを名乗るようになってから、左手の先が義指であることを知っているのはヒューズだけだ。長年、手袋の下を誰かに見られたことはない。

「腕が戻れば治るさ。ありがとよ」

 ヒューズは柔らかく笑んでから、タトゥーの刻まれた指で手招きしてきた。

 鷹揚とそばに寄って隣に座ると、男ふたり分の体重を受けたシートが深く沈んだ。

 左手同士が重なった。手はそのままヒューズの口元に運ばれ、義指の付け根に口付けが落ちた。

「今だけは、お前と同じ痛みを感じることができるってのは嬉しいね」

「痛みなら私がいくらでも与えてやるぞ」

「ベッドで咬まれるだけで充分さ」

 諧謔(かいぎゃく)のあと、視線がぶつかり、互いに黙った。

 ひどく熱っぽい間のあと、そうしなければならない気がして、ガスマスクを外した。

 先に動いたのはヒューズだった。距離が詰まり、彼の整髪剤の甘いにおいが鼻先を掠めた。

 唇が触れる。舌は入ってこなかった。

「……続きは腕が戻ったらな」

 喉の奥で笑って、ヒューズは目尻を細めた。