「よぉ、ヒューズが来たぞ」
マーシナリー・シンジゲートの一部の人間だけが知っている自宅にやってきたのは、よりにもよってウォルター・フィッツロイだった。
「今から射撃訓練に行かねぇか」
招かれざる客は図太くもそう言った。
二度チャイムが鳴って、インターホンのカメラモニター越しに目が合い、見透かされているようで居心地が悪くなって渋々出迎えたが、後悔している。
「誰からこの場所を訊いた」
「運営だ。個人的に仲良くなったやつがいてな」
これだから口が軽い人間は嫌いだ。
「お互いせっかくの休みだろ」
「なぜ休日を貴様と過ごさなくてはならない? そもそも私は関係者以外の人間を家に入れるつもりはない」
間髪置かずに拒絶すると、彼はぽかんとしたあと「俺も関係者だろ?」肩をすくめた。
歳上の男に苛立つことがあるだろうか。寝不足の頭が痛む。
「私は忙しい。帰ってくれ」
「いやだね。せっかくここまで来たんだ。コーヒーを飲んで帰る」
こめかみの痛みが増した。睨め付けてみるが、彼はけろりとしている。この男の図々しさと無神経さに溜息が出そうになりながら、どうするべきか逡巡した。けんもほろろに追い返せばドアをぶち破られかねない。サルボ人は野蛮なのだから。
「お前を中に入れるにはひとつ条件がある」
「なんだ?」
「もう一言も発するな」
ヒューズは口を開いたが、すぐに閉じた。
ドアを片手で押さえたまま身体を引き、顎で中に入るよう促し、居間に通した。
「私は論文を書かねばならない。コーヒーを淹れてやるから大人しくしていろ。くれぐれも邪魔をするな」
「そんな釘を刺さなくても暴れたりしねぇさ」ヒューズはソファにどっかりと座り「砂糖とミルクはいらねぇ。よろしくな」鋼鉄の指を滑らかにひらひらと振った。
キッチンのコーヒーサーバーまで大股で歩いて、朝の残りをマグカップに注ぎ、早足で戻って、ふんぞりかえっているヒューズの前に置いた。勢いのあまり、零れたコーヒーがマグカップの糸底に沿って琥珀色の輪を作った。
「お前、寝てないだろ」
テーブルから視軸を上げると、ヒューズの垂れがちの目がまっすぐにこちらに向いていた。
「だったらなんだ」
「目の下にクマができてる。研究熱心なのはわかるけどよ、休まねぇと身体がもたねぇだろ。明日のゲームに備えて今からでもしっかり休んだらどうだ?」
「ゲームに参加するレジェンドからの忠告は受けておこう」
「友達としてじゃなくレジェンドとしてか。お前らしいな」
ヒューズの口元でマグカップが傾く。
「言ったはずだ。私は友人を作るつもりはない」
「俺もお前を友達だとは思ってねぇ」
彼はまた一口コーヒーを飲んだ。
「信用してねぇからな」
鋭く低い声だった。
傾いたマグカップの底で見えなかった隻眼には敵意の影が潜んでいた。ここには、冷えたビールと爆発物を愛する、掴みどころのない飄々とした男はいなかった。
苦くねっとりとした沈黙がふたりの間を漂った。
「なんてな」ヒューズは噴き出した。「冗談だ。ゲームで何度か救われてから、ちょっとは信用するようになった。お前のことを〝とんがった友人〟だと思ってる。俺はお前がどういう人間なのかもっと知りたいのさ。そのために来たんだ。でもまぁ、寝不足の人間を射撃訓練に誘うわけにはいかねぇな」
マグカップがテーブルに戻った。中身は、もうほとんどない。
「一緒に戦う奴のことを知っておけば、ドンパチしてる間は無駄なことを考える必要もねぇ。連携も取りやすい。雑魚を牽制できれば戦いも楽になる。他の若い連中は可愛いもんで、射撃訓練に付き合ったり、戦い方を見てるうちに癖や相性の良し悪しがわかってくる。なにを考えてるのかもわかるようになってくる」
「なるほど……」
ヒューズの言うことは理にかなっている。戦闘時の行動傾向、得意武器、癖――それらを把握しておけば、Apexゲームにおいてスムーズな連携が可能となり、有利にことを運べる。それに、この男と互恵関係を築いておけば、いずれ己の利益となるだろう。
科学者なら誰もが経験したことのある閃きに似た黒い思惑は、胸を躍らせた。
「俺はまだお前だけがわからねぇんだ。罠を張るのは俺も好きだけどよ。なぁ、お互いもう少しうち解けてもいいんじゃないか?」
長きに渡り戦場に身を置いてきた傭兵は、腕を組み、返答を促すように首を傾けた。
「……いいだろう」
活気に満ちた褐色の眸を見据える。
「私を試せ。……推奨するよ。私もお前のことを観察しておこう」
「同じチームになった時は俺を頼れ。今度勝ったら、飲みに行こうぜ」
白い歯を見せてヒューズは笑い、それから、コーヒーのおかわりを催促してきた。
彼は結局コーヒーを三杯飲んで帰っていった。
翌日、キングスキャニオンで行われたゲームでヒューズと同じチームになり、チャンピオンとなった。
瞬く間に賞賛と興奮の嵐が吹き付け、報道陣の波に呑まれた。
インタビューに諧謔混じりに答えるヒューズの隣で「彼の判断がよかった」と適当に質問をあしらう。
早く自宅に戻って、得た実験データの解析をしたくて仕方がなかったが、広大な戦場をあとにするシップの中で「チャンピオンになったら俺と飲みに行く約束、忘れてねぇよな?」ヒューズに背中を叩かれ、頭の中で組み立てていた予定は音を立てて崩れていった。
私でなくとも、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。もうひとりのチームメイトはあの人造人間だ。あれが他者に干渉するわけがない。
約束をした自分の軽率さを呪い、観念した。
「……わかった。約束は約束だ。行こう」
「そうこなくっちゃな。チャンピオンには勝利の美酒が必要だ。ソラスシティの外れにいい店がある。そこに行こう」
彼は今日の疲れを知らないかのようだった。
ヒューズに連れられるまま、ネオンサインでぎらつく繁華街を通り抜けた。
雑踏から遠ざかり、燈が減ると、夜の歩道を独占していた野良猫が我々に気付いてしなやかに逃げ出した。
辿り着いたのは、ひっそりと静まり返った路地裏の一角に佇む店だった。吊り看板には「BAR」とだけあった。辺りをぼうっと照らす古めかしいウォールランプに群れる蛾の歓迎を受け、ヒューズのあとに続いた。
こぢんまりとした店内は眠くなるような柔らかな照明が灯っていた。奥にはステージが設けられており、金色の光を放つスポットライトの下にはピアノがあった。演奏者はMRVNだ。客は少ないが、ここでは酔って面倒を起こす者はいないだろう。各々に酒を飲みながら談笑を楽しんでいる。中には、ビリヤードに興じる客もいた。
テーブル席は埋まっていたので、カウンター席に並んで座った。
「いい雰囲気だろ?」
「ああ。お前がこんな店を知っているとは信じられない」
「まぁな。ビールでいいか?」
頷くと、彼はビールをふたつ頼んだ。ロボットのバーテンダーはすぐにビールを運んできた。グラスにはくもりひとつなかった。
「俺たちに」
軽く持ち上げたグラスの縁が引き合う。控えめな乾杯のあと、彼は瞬く間に飲み干し、次にウイスキーをボトルで注文した。
うまい酒を飲みながら、一寸の狂いもない優雅なピアノ演奏を背景雑音にして他愛のない会話を交え、この男の腹の内を探ろうとした。ふたりでボトルを半分以上空けたが、ヒューズは饒舌になろうとも隙はなく、弱みになるような情報は聞けなかった。
ただ、母星で幼い頃から不公平な生き死にを見てきた彼の話は、正直興味深いものだった。人間の命は軽いものだと改めて気付かされる。虫ケラと同等の命だ。蛆虫のように湧くのなら、いっそ実験に協力してほしいものだ。
腕時計を確認する。日付が変わっていた。いつの間にか客も減っていた。今から帰れば、朝方には今日の実験データを細かく数値化できるかもしれない。
「お前とこんなに話せるとはな。気分がいいぜ」
ヒューズは酔っていた。
「熱い戦いのあとは人肌が恋しくなるな。ベッドで一晩中慰めてほしいもんだ」
「人肌が恋しいのなら、いつまでも私といないで、娼婦でも抱きに行けばいいだろう」
「あいにく俺は惚れた相手しか抱かねぇんだ」ヒューズのグラスの中で、溶けた氷が崩れてからりと鳴った。「気に入った相手はまず口説くって決めてる」
ヒューズは義手で突いた頬杖に顎をのせて微笑んだ。目尻の皺が深くなる。柔和な表情だが、眸には導火線の先で瞬く火に似た危うげな興奮がちらついていた。
「……私を、口説くと?」
彼は意味深な笑みを口元に湛えたままウィンクした。
「我々は同性だ」
「俺には惚れた相手の性別なんざ大した問題じゃねぇ。好きなものは好きなんだ。前にお前は自分のことを『神ではないがそれに近しい存在だ』って言ってたよな。天にまします神サマってもんは、男女平等に愛してくれるもんだろ?」
「サルボ人に信仰心があるとは驚きだ」
「神サマなんてとっくの昔に撃ち落とした。それに、神に祈って手が塞がるくらいなら、俺はグレネードのピンを抜くね」
忍笑いで結んで、ヒューズは口元に寄せたグラスを傾けた。突出した喉仏が上下するのを見据えたまま思考する。これを飲み干したあと、彼はおそらく答えを求めてくるはずだ。駆け引きは好きではない。主導権を握るのはいつだって私なのだから。
しかし、今は追い込まれていた。退路がない。足を滑らせれば奈落に落ちる。
「お前がなぜ私にここまで興味を持ったのかを知りたい」
「なに、簡単だ」
ヒューズは身じろぎして椅子に座り直した。
「俺は確率だの効率だの、理屈ばかり捏ねる科学者は嫌いだが、お前は違う。お前は屁理屈を垂れる前に行動してる。結果のためならなんだってする。手を汚すことも厭わない。きれいごとも言わねぇ。俺と似てる。だからそそられる」
彼は酔いが醒めたようだった。
「俺はお前がほしい。本気だ」
MRVNの演奏が終わり、まばらな拍手のあと、静けさが戻った。
甘ったるい熱情を含んだ沈黙が喉元に絡みつき、説得されてしまったかのように言葉が出ない。他者から親愛を向けられるのは煩わしいだけなのに、ヒューズを拒絶できなかった。
汚れ仕事を好んで担う、利用価値のある男――互恵関係を望んだ時からヒューズへの評価はそれだけだが、速い鼓動がなにかを訴えてくる。
胸に湧いたのは、決して他人に理解されない死生観が近しいとわかった時の関心と親近感と、ゲームの最中にヒューズに背中を任せている時の安堵だった。
そして今も、無意識に、当然のようにヒューズに気を許している。些細な気付きや僅かな信頼感が蓄積されて、評価が変わってしまったのかもしれない。だから求められても不快感がない。それどころか、この男を誰にも渡したくない――手に余る執着心を自覚すると、強烈な喉の渇きに襲われた。
投げ入れられた爆弾が胸の内側で爆発した。この男を誰かに渡すくらいなら、奪われる前に手に入れておいたほうがいい。
「おっと、こりゃあ、フラれちまったな」
暫時黙っていたヒューズは、溜息を吐いた。
「仕方ねぇ。お前のことは諦める。……さて、俺は退散するか。今夜はおごってやるよ」
財布から出した紙幣を置いて、ヒューズはのろのろと立ち上がった。「いい夜だったぜ」
「待て」
咄嗟に呼び止める。
「あん? これで足りるだろ?」
「私はまだ返答していない。座れ」
怪訝そうな表情のあと、母親に叱られた子供のように、彼はぎこちなく椅子に戻った。
「腹立だしいことに、私が背中を預けられるのは貴様だけだ。死生観が一致したのもお前がはじめてだ」咳ばらいをして語を継ぐ。「友人以上の関係を持ってもいい。ただし、内密にな」
「……からかってるわけじゃねぇよな?」
「不服か?」
「まさか」
彼の表情から一握の険しさが消えていた。
「今すぐにでもキスしたいくらいだ」
「場所を考えろ」
「人目につかない場所なら、いいのか?」
色を含んだ視線に顔を逸らす。
「……私は貴様に毒され過ぎたな」
自嘲気味に笑って、残っていたウイスキーをグラスに注ぐ。
店内は先ほどまでとなんら変わりないはずなのに、今すぐにここを出なくてはならない気がした。
最後の一杯を飲み干して、ふたりでバーを出た。夜空は厚い雲に覆われていて、すぐにでも雨が降りそうだった。
「お前を抱きたいが……経験ないだろ? 心の準備ってもんがあるだろうから、俺の気が変わる前に帰った方が――」
「フィッツロイ」ヒューズの言葉を遮り、襟元を掴んで引き寄せた。「気遣いは不要だ。私が臆するとでも思ったのか?」
睫毛の長さがわかる距離になっていた。
「言っただろう。私を、試せと」
「お前は意外と大胆だな」
夜気にヒューズの息遣いが溶ける。
「誘われるのは好きだぜ」
街灯の燈の加減か、ヒューズの眸が捕食者のように炯々と光っていた。
ぽつりぽつりと、雨が降り出した。
濡れた肩から、じわじわと雨の冷たさが沁みていく。
国道沿いのモーテルに辿り着いた時には、雨足は強くなっていた。雨の日は空気が湿っていて、ガスマスクを外しても呼吸が楽だ。
間接照明の燈が頼りないこの部屋で、これから性交渉をする。言いようのない緊張が脳髄を痺れさせた。
一方で、平常なヒューズは、雨の中モーテルの入口にあった自動販売機にビールを買いに行った。
先にシャワーを浴びようとバスルームを覘くと、脱衣所に暖房器具があったので、脱いだ服を干した。一晩で乾くだろう。
シャワーヘッドから噴き出る湯は熱かった。一日の疲れと緊張が排水口に流れていく。冷えた身体に熱が戻り、酔いも醒めた。
備え付けのガウンを着て、髪を乾かして部屋に戻ると、ヒューズがソファでビールを飲んでいた。整髪剤で固めていた髪が崩れていた。哀愁の混じった壮年の色気が滴っているが、なぜか土砂降りの中途方に暮れる野良犬を思い出した。
「俺もシャワーを浴びてくる」
野良犬は上機嫌でバスルームに向かった。カーペットが点々と濡れていた。彼がいたソファに座るのはやめておいた方がいいだろう。
テーブルに残されたビール瓶の隣に、掌サイズの箱が置いてあった。煙草だろうか。彼が喫煙者だとは知らなかった。部屋で吸わないように言わなくてはいけない。
眉間にシワを刻んで唸ったが、なんだか妙だった。
「…………?」
買ってきたのなら、待っている間に喫っていそうなものだが、傍には灰皿もライターもない。煙草の箱だけが置かれていることに疑問を感じて、シンプルな黒いパッケージに視線を注ぐ。手に取って裏返すと、それは煙草ではなく、スキンだった。まだ開封されていない。
羞恥心に捕らえられ、身動きが取れなくなった。電源の付いていない暗いままのテレビ画面に、立ち尽くす自分が映っていた。
咳き込んでようやく、身体は自由になった。箱をテーブルに戻し、ベッドまで歩き、腰掛ける。同性との性行為についてイメージをしてみるが、まるでわからない。未知の世界だ。
「ここのシャワー、いきなり水が出やがってびっくりしたぜ」
どれくらい経ったか、バスタオルを腰に巻いてヒューズが戻った。濡れた前髪をかき上げ、彼は素足のままカーペットを踏み締め、スキンの箱を取ると、フィルムを剥がし、サイドテーブルに置いた。
「で……ホントにいいのか?」
囁くような声量だった。
アイパッチで覆われていないへこんだ瞼に斜めに走る傷痕を見据え、しっかりと頷く。
これから行う行為は同意の上なのかを確認されているのはわかるが、これではまるで、はじめて男と床を共にする処女のような扱いだ。振り払ったはずの羞恥心が鼓動を速めた。ガスマスクを着けたくなった。
ヒューズの影が濃くなって、気付いた時には天井を見ていた。互いになにも言わなかった。微かな衣擦れを立ててガウンがはだけ、サイドテーブルにのったランプの燈に裸体が暴かれる。
シーツに両腕を突っ張って被さったヒューズの身体は古傷が目立った。体毛は処理しているのか、下生えすらなかった。壮年しからぬ生気横溢とした肉体は筋肉質だが、寄る年波には勝てないらしく、腰回りに肉がついていた。
「すべて任せることになる」
「それは構わねぇ」
鼻先が触れそうな距離で彼は言った。
褐色の眸に情熱が灯っている。
「……悪い、加減できねぇかもしれねぇ」
「それは構わない」
ヒューズは吐息で笑って、頭を傾けた。目を伏せると、唇をつつくようなキスをされた。急くことのない口付けだった。舌先に触れる動きの途中で、薄い舌が引っ込む前に咬み付いた。深く吐息が交わって、体温を吐き出すような熱っぽい息遣いに変わる。
ヒューズの頭が移動して、首の側面や鎖骨に唇が押し当てられ、肌を吸われた。リップ音を弾ませながら、唇は乳首を探り当てた。胸の先は、ねぶられるとすぐに硬くなった。
「……そこは」
「いいから」
「……ッ」
ヒューズの生身の手が胸部を鷲掴んだ。指先で捏ねられると、中心はすぐに芯を持った。ぷっくりと膨れたそこを摘み上げられる。反対側は強弱を付けて吸われ、軽く歯を立てられた。胸部にくすぐったいような、むず痒いような感覚が広がっている。蓄えられた口髭が肌を撫でる、ちくちくとした微弱な刺激にたまらず顎を固くさせる。
認めたくはないが、この刺激を快楽と呼んでいいのかもしれない。
「力抜いてろ。堪えなくていい」
ヒューズの声は不思議と耳に馴染んだ。顎の力を抜くと、喉に詰まっていた空気が抜けた。
首、胸、腹、そして足の間……ヒューズは全身に丹念に快楽の傷跡を刻んでいった。身体は徐々に慣らされている。息が乱れた。
萎えていた性器を掌で緩やかにしごかれ、しゃぶられ、火照った身体が脱力し、血流が下半身に集まり、ついに勃起してしまった。若い頃からないに等しかったが、性欲というさもしい欲望が残っていたことに驚いた。
「……ッ、ぐ」
喉を反らし、肺いっぱいに酸素を取り込む。股間からする淫らな粘着質な音に慄いた。ヒューズの頭だけが小刻みに上下に動いている。腰が跳ねてしまいそうだった。
「フィ、フィッツロイ……」
みじめなほど情けない震えた声でヒューズを呼んだ。やめろと言いたかったのに、言葉は最後まで出なかった。
「イきそうか? じゃあおあずけだ」
舌先で上唇を舐めた彼は憎たらしいほど涼しい顔をしているが、下半身では男根が血脈を浮かせてそそり勃っていた。
膝裏を掴まれ、ハの字に広げられた足の間にヒューズの身体が割り込む。
ほめく二本の性器同士が重なった。先走りを垂らした彼のものが押し付けられる。太さも長さも異なる肉杭を合わせると、ヒューズは器用に尖端を掌で擦り上げた。掌の内側で、密着したペニスが脈動しているのがわかる。体液が混ざり合って、ぬちぬちといやらしい音を立てた。
「そんなそそる顔されたら俺も我慢できねぇな」
高揚感を吐き出して、ヒューズは口の端を緩めた。先ほどまでの余裕は、削れていっているようだ。
身体が離れた。ヒューズはスキンの箱に手を伸ばし、連なったスキンをひとつ切り離して封を切った。丸まったスキンを裏返して内側に溜まっていたジェルを指先に絞り出すと、そのまま尻の真ん中の未知なる窪みに宛がってきた。排泄器官は異物を拒むが、彼は時間を掛けて指を押し込んでいった。
「は、ぅ……ぐッ……ッ」
柔らかさを得た孔に潜り込んだ指が体内で鉤型に曲がり、肉の壁を割っていった。圧迫感が腹の中で波紋のように腹に広がる。
「……ッ、はぁ……」
「深く息を吸って吐け」
言われずとも、吸気と呼気を繰り返すだけで精一杯だった。こうしている間にも、ヒューズの指は確実に粘膜をほぐしている。腹の中を別の生き物が蠢いている。
いつの間にか湧いた生理的な涙で視界が滲んでいた。瞬くと、涙の粒が睫毛に絡んだ。
「痛かったら言え。お前のケツを壊すようなことはしたくない」
引き抜かれたヒューズの白い指が、シーツに投げ出されていたスキンを取って端を破った。
ランプの燈が、被膜の淡い色を映えさせた。
晒された肉色の粘膜の間に挿入できるか確かめるように、窪みに軽く先端が押し当てられては離れた。太い幹の裏側が下から上に撫で付けられ、睾丸が圧し潰される。スキンに纏わり付いたジェルで、弾力のある塊が潤滑よくぬるぬると滑っているのがわかる。
片膝の裏を鋼鉄の手に押さえ込まれ、いよいよその時がきたのだと悟り、できる限り腹の力を抜く。
目を閉じると、疼痛が背骨を駆け上がった。指とは比べ物にならない圧倒的な熱量が体内に侵入する。一度出っ張った雁首で引っ掛かったが、ずるりと一息に押し込まれた。
「……あ! ……ッ、ぅ……」
衝撃に瞠目する。湧いた涙で焦点が定まらなかった。ぼやけた視界に結合部が映る。もうほとんど挿っていた。ゆっくりとした動きで、さらに奥へ突き入れられる。
「ぅ……ん、ぐ」
ふっふと息を乱し、ヒューズの背中にしがみついて、腹から全身に伝播する苦しみを逃がすように爪を立てた。熱い疼きがじわじわと腹の中で強くなっていく。
「平気か?」
「構うなと、言っただろう」
「……そうだったな」
ヒューズは直腸の不規則な収縮を味わっているのか、中々動かなかった。
腰が浅く引き、打ち付けられ、抽挿がはじまった。動きに合わせて呻き声が出た。女は腹の中を突かれると媚びた声を出すが、あれは意図的ではなく、反射なのだと知った。体内を突かれると、押し上げられるように声が出てしまう。
歯を食い縛ると、鋭い息が漏れた。息が苦しくなって、酸欠になる前に喘ぐ。
血の通った肉と肉のぶつかり合いは勢いを増した。ヒューズの首から下がるネックレスのトップで、横向きのカンガルーが弧を描いている。
「ぁ、うッ、うぐッ」
股座に視線をやると、角度をつけた自身のペニスがしなっていた。
尻たぶに重量感のある彼の睾丸がぶつかって、生々しい破裂音が互いの息遣いに被さる。
腹の隙間を埋める圧迫感が抜ける解放感は、排泄感に似ていた。原始的な感覚であるはずなのに、気持ちがいい。肉の輪はヒューズの形を覚えようとするかのように攣縮を繰り返す。
ヒューズの昂りが狭い肉の間を往復する回数が増え、腰使いが円を描くものへと変じて、苦しいだけではなくなった。
「はッ、ぅ……ぐ……!」
なにかが、腹の底から脊髄を伝い上がって、みぞおちのあたりで渦を巻いている。
偽りの名前を呼ばれ、愛を囁かれ、咬みつくようなキスをされた。啄まれ、舌を吸われる。欲情しているヒューズの隻眼がぎらぎらと光っている。見たことがない男の表情にぞくぞくした。
「……ひッ……ぐ、ぅッ……!」
長いストロークの中で、緩急を付けながら泣き所を探られている。官能の火に炙られた法悦が溶けて、快楽の溜まりを作った。
孔から抜け落ちそうなところでとまっていた滾りが深々と押し込まれた。肉襞に逆らった重い一突きだった。押し寄せる怒涛に頭の中が真っ白になり、息が詰まる。
「待て、待って、くれ」
「待たねぇ」
濡れた肉と肉が激しくぶつかって、湿った重々しい音が雨音を遮った。
「あッ、あぁッ……!」
反射的に出てしまう濁った声がとまらない。
されるがままだった。快楽を迎えようと下がった臓腑の奥の奥に、ヒューズはいる。狭まった粘膜の隙間を押し潰され、腹の中が燃えるように熱くなった。
「~~~~~~~ッ、…………!」
喉が反り、声も出せないほどの極致感に襲われた。天井を向いていたつま先が丸まる。視界の端から端へ、斑な極彩色の影が泳いでいって、ヒューズの顔が見えなくなった。
得体の知れない感覚は恐怖に近く、甘美なものだった。四肢の感覚が遠のき、下肢から力が抜け、身震いした。まさか失禁したのではないかと慌てる。ふたりの間で弾んでいた性器から、勢いのない白濁がどっぷりと溢れて、下腹部から濃い下毛を汚していた。排尿とも射精とも違う不随意な感覚に、身体は硬直と弛緩を繰り返す。
目の端からあたたかい涙が溢れた。なにが起きたのかわからなかった。体液をたっぷり吐き出した性器はすぐに萎え、情けなく揺れ続けた。
「ケツでイったのか?」
最奥に留まったまま、ヒューズは顔を覗き込んできた。
「よくできました」
宥めるような声が意識の片隅に転がり込む。額に口付けが落ちた。
「俺たちは身体の相性もいいみたいだな」
ヒューズの背中に置いていた手を剥がされ、シーツに縫い付けられた。互い違いに交わった指が絡み合う。身体は隙間なく密着し、肉体の境界線がわからなくなってしまいそうだった。
「あ、ぅ、フィッツ、ロッ……ぅ、ぐッ」
収斂する窄まりを捻じ伏せ、ラストスパートをかけた腰使いに切り替わった。シワだらけのシーツに体温が落ちる。
「俺もイきそうだ」
性器に成り下がった柔らかい粘膜の間で昂りがどくどくと脈打つのを感じながら、必死に酸素を取り込む。
「年甲斐もなく、燃えちまった」
放った精液を余すことなく最奥へ注ぐような腰使いを最後に、肉杭は引き抜かれた。精液はスキンの先に溜まっているというのに、腹の内側に塗り広げられた気がしてならない。
ヒューズが離れたあと、入れ替わるようにして倦怠感が覆い被さってきた。
外では、雨が降り続いている。
カーテンの隙間から差し込む朝日で目が覚めた。
起き上がると、まだ悪い熱が留まっているかのように、腰回りが重たかった。
剣呑と眉を寄せ、ベッドサイドのデジタル時計を確認する。角ばった数字は、七時三分を表示していた。
隣を見ると、背中を向けているヒューズの肩がゆっくりと規則的に上下していた。
昨晩、事後の腰の痛みと気怠さに敵わず、シャワーも浴びずに眠ってしまった。それはまだ眠っている彼も同じだった。
ヒューズがもぞもぞと動いて寝返りを打った。
仰向けで穏やかな寝息を立てる彼の顔を見詰めていると、昨晩の行為の最中に紡がれた親愛の言葉を思い出してしまった。
愛情など生きる上で必要のないものであるのに、この男から与えられるがままに受け取ってしまった。放り出せばいいものを、手放すことができないでいる。熱く滾る親愛というものは実に厄介だ。
「ん……」
ヒューズの眉間にシワが刻まれ、うっすらと目が開いた。
「……おはよう」
眠たげな掠れた声だった。ヒューズは義手を支えにして身体を起こして、大きなあくびをして両腕を天井に伸ばした。
「あ~、よく寝たぜ。お前はちゃんと眠れたか?」
曖昧に頷きながら、昨晩の情事を思い出していたことを悟られないように、顔を逸らした。
「シャワーを浴びてくる」
「おう」
ベッドを出て、脱衣所へ逃げ込んだ。干していた服は乾いていた。
ドアを閉めて、ガウンを脱いで、鏡に映った姿を見てはたと気付く。
首や肩に、赤々とした鬱血の痕が残されていた。服を着ればわからない位置だが、夜のとばりが降りたあとにヒューズと交わした情事の証はしばらく消えないだろう。
指先でぬくい肌に残った痕を摩る。
寝室からヒューズの鼻歌が聞こえてきた。
眩い朝日に似つかわしくない、甘く淫らな狂熱が腹の底を焦がした。