それは勝ち戦だったと聞く。
戦は兵の数がすべてではないが、一万の自軍に対して、敵軍は二千。そのうち半分は流行病に倒れ、兵糧も尽きていると斥候から報せが入った。
勝敗は目に見えていた。劣勢である敵軍の悪足掻きだと、誰もが口を揃えた。
それでも、隠忍自重な彼は決して油断はしない。彼の率いる精鋭兵もそれは重々承知だ。
剣光帽影。
見事な布陣だった。彼の采配は非の打ち所がなかった。地形を生かして攻め込む戦法が得意な彼等は、旗鼓堂々、怒涛の勢いで攻め立て、功を打ち立て、総大将を討った。
彼が負傷して帰城したのは、その日の黄昏時の事だった。
聞けば、配下を庇って一太刀浴びたという。
部下を慮ることを常とする彼らしい、実に彼らしい理由だと思った。
さめざめと泣いて詫びる配下に対して、百戦錬磨の将は斬られた腕を押さえて「戦に勝ったのだ、喜べ」と豪快に笑ったというのだから、これも彼らしいといえばそうなる。
だが、我々は乱世に生きる将だ。何十万石の領地を統べ、数多の兵を統率する身であるのだから、お主一人の身体ではないのだと詰ってやりたい。
そのためにも――否、まずは労いの言葉を掛けてやろう。
彼を見舞う為に寝所へ赴く途中、廊下で彼の侍医とすれ違った。呼び止めて状態を訊くと「将軍は床に臥せております」と、侍医は哀し気に目を瞬かせた。
背中を冷たいものが滑り落ちた。踵を返し、暴れ馬のように高鳴る鼓動のままに足を速めた。
「はっは、あれも大袈裟だ。利き腕をやられたが、掠り傷だ。大事ではない」
褥に胡坐を掻いて、ゲンマ将軍は莞爾として笑んだ。彼の掻巻の袖の端から、右腕にしっかりと巻かれた白い布がちらついている。
これが掠り傷なものか。痛むか、と訊けば、少しな、と小さな声が返ってきた。
「三日もすれば治る。それまでは指揮を執ってくれはくれまいか。血の気の多い家臣達を任せられるのはお主だけだ」
「承知仕った。しかし、某としては、もっと静養してほしい」
「三日で十分だ」
「相手が死にぞこないでなければ、剣を振るえなくなっていたかもしれないのだぞ」
「ならば儂は運がいい」
「馬鹿者」
眉間に皺を深く刻んで吐き出すと、彼のそばを漂っていた二つの青白い人魂が、返事をするように弱々しく明滅した。
「そう目くじらを立てるな。顔が怖いぞ、ブシニャン殿」
「すまぬ。見舞いに参ったというのに、つい小言が」
「儂を心配召されたか。かたじけない」
「友を見舞うのは当然でござるよ」
褥の脇に端座して、ひとまずは、ほっと胸を撫で下ろす。
傍らの火鉢が温かい。秋の夜は冷える。
「……無事でよかった」
膝に置いた手に視線を溜めて呟いた。
「ああ。くたばり損なったようだ」
「討ち死にするつもりでござるか」
顔を上げる。吐き出した声は震えていた。
「武士ならば……それもまた本望」
「そのようなことを申されるな!」
胸に、衝動的に恐れが込み上げた。手が冷えていく。
彼が怪我人だということを忘れて横っ腹に抱き着く。
「絶対に死ぬな。某より先に死ぬな……」
ゲンマ将軍とは、血で血を洗うこの時代を支え合って生きてきた。切磋琢磨し、喜怒哀楽を共にして今がある。隣にいるのが常なのだ。同じ方向を向いて同じ歩幅で歩んでいく。今までも。そしてこれからも。彼を喪いたくない。
「ブシニャン殿」
穏やかな声がして、両脇に手が差し込まれた。抱き上げられて、向き合う形で膝に降ろされた。負傷しているといえども、軽々と抱き上げられたので驚いた。
彼の後ろで、人魂が、風に煽られた燭台の火の如く瞬いている。
この二つの人魂は、生前の彼に仕えた家臣達のものだと聞いたことがある。
人魂が揺れると、生い茂った木々がさざめくような音が耳朶を打った。それはまるで鬼哭のように思えた。
「儂を咎めるのはいつもお主だな」
静かな声音に、不安定に浮遊する未練の塊から視線をずらす。
漆塗りの、凛とした強さを潜めた双眸に自分が映っている。
「某とお主の長い付き合いでござろう」
頬を胸に押し付ける。隆起した胸の奥深くで、熱い血潮と鼓動を感じた。
生きている。生きねばならぬ。
「相済まぬ。目が覚めた。共に天下を取るという契りを交したのに、情けないことを言った」
「まったくでござる。武士に二言はないでござるよ」
背中を抱く手に力がこもるのを感じた。赤子をあやすように優しくゆっくりと背を摩られて、目頭が熱くなる。
彼と、安寧の為に共に生きるのだ。
彼となら、ぬかるんだ道も歩いていける。
いつの間にか日が落ちていたのか、閑寂として、薄闇が部屋を満たしていった。
傍の火鉢の中で、鮮やかな緋色が冷灰に埋もれて瞬いている。
「今宵はここにいてはくれまいか。お主は温かい」
「うむ。怪我人の頼み事は聞いてやるでござるよ」
「はっは……ありがたいことだ」
嬉し気な声と衣擦れの音……先に褥に横たわると夜着が被さった。再び背中を抱かれ、体温が溶け合う。深淵に転がっていた眠気が浮上した。
三千世界の鴉を殺してでも、今はただ、静かに眠ることを許されていたい。確かな鼓動に抱かれていたいのだ。