黒須×乃木

 C国の地下資源採取とその研究を目的とした、丸菱商事とJKT資源開発による合同事業の企画が発足してから三カ月が経った今日、二度目のミーティングが開かれた。資源採取がはじまる前の重要な話し合いだ。
 先方のチームには黒須がいる。彼は表向きはJKT資源開発の優秀な社員であり、技術力の高い世界屈指のエンジニアだから、技師としてこの事業にも携わるのは当然のことだが、お互い愛想笑いを貼り付けて「いつもお世話になっております」とお辞儀をするのは滑稽に思える。
 ミーティングを終えてJKT資源開発本社のビルディングを出る頃には、空には夜の気配が滲んでいた。
「黒須さん、かっこいい人ですね」
 同行していた部下がうっとりと溜息をついた。彼女がミーティング中黒須を気にしていたのはわかっていたが、まさかそんなことを言い出すとは思っていなかったので、思わず苦笑いする。
「顔がよくて、社交的で、バリバリ仕事ができて……はあ……黒須さんモテるんだろうなあ」
 ははあ、と曖昧に笑って「彼とはいい仕事ができるといいね」と当たり障りないことを言って、それから、わざと腕時計を見る。
「ああ、もうこんな時間か。あとは僕が資料を纏めておくから、直帰してもいいよ」
 黒須に夢中だった彼女は嬉しそうに「え、いいんですかあ」と顔を綻ばせた。

「丸菱商事の乃木さんて、優しそうで素敵な方ですね」
 隣を歩いていた部下が思い出したように言った。今日はいい天気ですねとでもいうような口調だった。
「……ああいう人が好みなの?」
「はい。乃木さんて、ちょっと放っておけない雰囲気があるっていうか——」
 聞いてもいないのに、彼女はぺらぺらと乃木さんについて語り出した。興味はなかったので、適当に相槌を打ちながら聞き流した。
――お前に乃木さんのなにがわかる?
 胸の中に立ち込めた黒い靄をはらい、人当たりのいい微笑みを浮かべて「JKT資源開発の黒須駿」として振る舞った。
 なんだか無性に、乃木さんに会いたくなった。

 

 自社のオフィスに戻り、自席で今日の資料を纏めていると、ジャケットのポケットの中でスマートフォンが震えた。
 取り出して画面を見ると、黒須からメールが届いていた。親指の腹で画面をタップしてメールを開く。

『今夜、会えませんか?』

 ただ一文、そう書かれていた。
 瞬きをして、一瞬視線を辺りにやって――別にコソコソする必要はないのに――文を打ち込む。時間と場所を指定して送信すると、すぐに返信がきた。

『了解です。』

 メールを閉じて、何事もなかったかのようにスマートフォンを仕舞い、再びノートパソコンと向かい合った。
 黒須と同胞以上の深い関係になったのは、忘れもしない。別班の任務でA国で共に行動していた、或る夜のことだった。
 悪夢を見て飛び起き、呼吸を乱して動揺していたところを、口付けによって平常心に戻されたのがきっかけだった。
 あの夜、そのまま黒須に好意を告げられ、彼を受け容れた。強く抱き合って共寝をしてから、黒須とはプライベートで会うようになっている。
 時々食事に行き、ホテルの部屋で抱き合い、同じベッドで眠る。未だに肉体関係はないが、黒須が昂りを抑え、性的興奮を飼い慣らしているのは気配でわかる。しかし、踏み出し方がわからない……
 恋人と呼ぶには未熟だろう。
 それでも、満足している。

 退社して、黒須と待ち合わせている四駅離れた某駅へと向かった。電車に揺られている間、黒須からの連絡はなかった。
 約束の二十時少し前に指定した駅へ着いた。改札を出て、ゆったりとした足取りで人混みを歩きながら視線で黒須を探す。帰宅を急ぐ人々で溢れる構内でもすぐに見付けた。黒須は北口の出口にある案内板の近くにいた。
 彼は背が高いが、目立たないよう気配を消して上手く辺りに溶け込んでいたが、人の波の中から目当ての人間を見付けるなんてことは簡単なことだ。
 十メートル以上先にいる彼と視線がぶつかった。歩調を緩めることなく傍に寄る。
「待たせたかな」
「いえ。すみません。とにかく、会いたかったんです」
 黒須は整った顔を曇らせていた。まるで捨てられた仔犬みたいだなと思った。こんな顔をするのは、きっと事情があるのだろう。
「取り敢えず、食事に行こうか」
「はい」
 揃って夜の街に向けて歩き出す。黒須はいつも、少しうしろを歩く。
 駅前にあるもつ鍋屋に入った。金曜日の夜とだけあって混んでいた。一週間の労働を終えた解放感と酒で浮かれるサラリーマンたちの笑声を雑音背景に、熱いもつ鍋に舌鼓を打った。もつは臭みがなく、ぷりぷりとして弾力があって、咬めば咬むほど旨みが出て美味い。黒須も気に入ったらしく、「美味いですね」と笑った。
 互いに酒は飲まなかった。烏龍茶を頼んだ。冷えた烏龍茶は、火照る身体を冷ましてくれた。
 賑々しい店内でも、黒須の声はしっかりと聞こえる。ついいつものように素っ気ないやり取りになってしまうが、それが僕たちのコミュニケーションだ。交わった視線や、微かな表情の機微で互いの感情はよくわかる。互いになにを考えているのかも。
「乃木さん、このあと、ホテルに……行きませんか」
 鍋の火を止めた黒須が声を顰めて言った。
 氷が溶けかけた烏龍茶のグラスを口元に運びながら黒須を見据えて「うん」と小さく頷く。「行こう」
 丸くなった氷が反転し、グラスの淵に当たってからりと鳴った。残っていた烏龍茶を飲み干して、おしぼりで口元を拭く。
 黒須が安堵したように吐息をついた。顔はまだ、捨てられた仔犬のままだ。
 
 

 飲食店が軒を連ねる賑やかな表通りも、道を一本外れれば静かになる。
 もし異性同士ならこのままいい雰囲気のままラブホテルに向かうんだろうけれど、今夜泊まるのはごくごく普通のシティホテルだ。
 任務でもそうするように、ツインベッドの部屋を一部屋借りた。
 チェックインして、エレベーターに乗り込む。その間、黒須との会話はない。
 九〇九号室は、九階の角部屋だった。
 部屋は清潔感の溢れる芳香剤の香りがした。眠らぬ街を見渡せる大きな窓に、分厚いカーテン。赤い絨毯。テーブルと二脚の椅子。革張りのソファ。大型のテレビモニター。クローゼットにキャビネット、そしてツインベッド……至ってシンプルな部屋だ。
「それで、なにかあったのかい?」
 ふーっと溜息をついてベッドに腰を下ろして唐突に切り出すと、黒須は一刹那目を丸くさせ、微苦笑した。
「今日、部下が俺に乃木さんの話をしたんです」
「僕の?」
「はい。優しそうで素敵な人だと」
 今度は僕が目を丸くさせる番だった。
「そのあとも色々と、異性として魅力的であることを語ってました。それを聞いていたら、どうしようもなく悶々として、乃木さんに会いたくなってしまって」
「つまり君は……嫉妬したわけか」
「嫉妬、ですか」
 嫉妬、と復唱して、黒須は困ったように頬を掻いた。
「そうなのかもしれません。俺の乃木さんなのに、と思ってしまったので……すみません。俺はあまりにも幼稚ですね」
「そんなことはないよ。それだけ僕のことを思ってくれるのは、正直にいうと嬉しい」
 陰っていた黒須の表情が変わった。今は、懐っこい仔犬みたいだ。
「乃木さん……抱き締めてもいいですか」
「おいで」
 黒須を受け止めようと立ち上がり、両腕を広げる。腕の間に黒須の身体が割り入った。しっかりと背中に手を回し、摩ってやる。
「乃木さん、あったかいです」
 しなやかな腕に抱かれた。黒須の抱擁は、ガラス細工を扱うかのように優しい。彼の肩口に顔を埋めて目を閉じると、胸に温かな気持ちが湧いた。一回り歳下の男は、丸めた背中を穏やかに上下させて僕の肩に顎を載せ、ふたりの間に訪れた安息を噛み締めている。
「乃木さんのにおい、好きです」
「おじさんのにおいなんて嗅がないでよ」
 離れようとしたのに腰から抱き寄せられ、そのままベッドに押し倒された。厚いマットレスは、男ふたり分の体重を受けて深く沈んだ。
 額を突き合わせてくすくすと笑い合う。のし掛かった黒須の身体は、しなやかだが、無駄がなく、筋肉が詰まっている。鍛えているのだとジャケットの上からでもよくわかる。
「好きです。乃木さん。俺の、乃木さん」
 抱き合って、ベッドの上で戯れた。
 そして不意に、黒須は僕の左手の薬指を口に含むと、歯を立ててきた。
「黒須?」
「指輪は贈れないけど、痕を残すことはできます」
 ギラギラとした目で黒須は囁いた。そして、もう一度薬指の付け根を咬んできた。今度は強く。心臓の鼓動に合わせて咬まれた場所が疼いた。
 黒須は熱っぽい吐息をついて僕の手から頭を離した。
「痕が消えなければいいのに」
 薬指の付け根には、形のいい歯形が一巡している。「これは、しばらく消えないよ」
「消えたらまたつけます」
「黒須って、意外と独占欲強いんだね」
 黒須は喉の奥で笑うと、僕の横に身体を投げ出した。それからのろのろとうつ伏せになって、頬杖を突いて指の背に顎を乗せて、柔らかく目を細めて「乃木さんだからですよ」言った。
 泣きたくなるくらいの充足感が頬を撫でた。
 そのあと、ジャケットがシワにならないうちに起き上がって、シャワーを順番に浴びて、僕のベッドで抱き合って寝た。
 眠りに落ちるまで、左手の薬指の歯形をなぞっていた。主従と呼ぶには甘すぎる、恋人と呼ぶには初々しい。そんな僕らの関係はこれからも続くのだろう。