気さくで、人当たりがよく、周囲からの信頼も高く、弁が立ち、能動的で、判断力が高く、決断力もある、世界屈指の有能なエンジニア――黒須駿という人間はどんな男かと訊かれたら、誰もが口を揃えてそういうだろう。
それもそうだ。表向きはそう振る舞っている。大手企業のJKT資源開発に勤務し、技術力を活かして世界中の地下資源の掘削や研究開発に携わるスペシャリストとして名を馳せる黒須駿。それが俺の仮初の姿だった。
愛想のいい笑みを貼り付け、軽薄にならないよう慎重に、確実に相手の懐に潜り込み、企業の機密情報はもちろん、不正や汚職を探り、弱みを握る――それが俺の目的だった。
俺の本当の姿は、エンジニアではない。
俺は愛すべき祖国、日本を護るために自衛隊によって編成された極秘組織、秘密情報部隊『別班』に所属する工作員だ。
同じ諜報員であり、先輩である乃木さんの元で精神的にも肉体的にも徹底的なあらゆる訓練を――戦闘訓練はもちろん、感情や肉体に基づくレジリエンスを高めたり、尋問や拷問を受けた時のために、心拍数や瞬きの間隔すらコントロールできるようになった――受けた。
上官の命令で彼と共に行動するようになって、もうどれくらいになるだろう。
今では、俺は乃木さんのことを腹の底から信頼している。
それだけではない。俺が乃木さんに対して抱いている感情には、すべて名前がある。
尊敬。信頼。憧憬。親しみ。共に任務につけたことに対する喜びだってある。乃木さんのような先輩を持てたことに対する誇らしさもある。他にも、俺は乃木さんに対して煌びやかな感情をあまねく向けている。
それなのに、今は、名前のない或る感情が胸の中を支配していた。抱いたことのない、苦しみを伴う感情の火種は、乃木さんと一緒に過ごす時間が増えれば増えるほど熱くなり、乃木さんという存在を強く想えば想うほどに勢いを増す。
この感情は、一体なんなのだろうか。
前を歩いていた乃木さんが足を止め、空を仰いで「雨だ」と呟いた。
乃木さんに倣って立ち止まり、視線を追うように顔を上げると、確かに、夏の気配のする空を覆った厚い灰色の雲から、ぱらぱらと雨が降りはじめていた。大きな雨粒が数滴頬を打ち、顔をしかめる。
「降ってきましたね」
「傘を持ってきてよかった」
「降水確率が40%だったんで迷ったんですが、今日は天気予報を信じて正解だったみたいです」
「今の時期は天気が変わりやすいからなあ」
乃木さんと揃って提げたビニール傘を広げて歩き出す。
今日は、丸菱商事とJKT資源開発が提携して行う、某国の資源採掘事業についての打ち合わせの日だ。
会議は丸菱商事のエネルギー開発事業部のオフィスで午後2時から行われる。偶然にもこの事業の主体は乃木さんと俺で、今日がお互いはじめての顔合わせという体で名刺を交換し、ビジネスマンらしく仕事の話をしながら丸菱商事に向かっていたところだが、まさか雨に降られるなんて。
雨足はすぐに強くなった。
「通り雨だといいんですが」
返事は返ってこなかった。乃木さんはまた足を止めていた。視線は、遠くを見ている。
「乃木さん?」
「少し待っていてくれ」
乃木さんは早足で歩き出した。訳もわからぬまま乃木さんの背中を目で追う。
乃木さんは傍の交差点で信号を待つ女性に傘を差し出した。
女性は乃木さんに何度も深く頭を下げた。乃木さんもそれに応じるようにこうべを垂れた。よく見ると、女性の腹は大きく膨らんでいる。信号が青になって、女性はお辞儀をすると、ゆっくりとした足取りで交差点を渡りはじめた。
「待たせて悪かった」
小走りに戻ってきた乃木さんの肩はびしょ濡れだった。
「妊婦に傘を?」
「どうしても見過ごせなくてね」
ちょっと困ったような表情で言った乃木さんがこれ以上濡れないように、「俺と一緒でよければ、どうぞ」傘を乃木さんの方へ傾ける。
乃木さんは不意を突かれたように目を丸くさせたあと「ありがとう」口の端を緩やかに持ち上げた。
一本のビニール傘の下で身を寄せ合って、歩幅を合わせて歩き出す。男ふたりで入ると少し狭い。乃木さんも俺も、外側の肩が濡れている。
不意に、雨に濡れた乃木さんのシャンプーの香りが鼻先を掠めて、どきっとした。男物の清潔感のある香りだ。柔らかな乃木さんの匂いに、鼻孔が膨らんだ。乃木さんは、シャンプーはなにを使っているんだろう。
「コンビニで傘を買ってから行きましょうか」
努めて平静に言うと、乃木さんは「そうしよう」と頷いた。
漂ってくるシャンプーの香りに頭がくらくらしそうになる。俺より背の低い乃木さんの横顔を一瞥すると、黒々とした眸がこちらを向いた。目が合って、どちらが先という訳もなくふっと笑う。
「相合傘なんて、はじめてだ」
「俺もですよ」
くすくすと笑い合って、濡れた歩道を進む。古びたビルの角を曲がると、コンビニの立て看板が見えた。
「俺は外で待ってます」
入口の横でコンビニに入る乃木さんを見送った。
「……参ったな」
男が男の匂いを嗅いでドキドキするなんてことがあるだろうか。
胸が早鐘を打っていることに気付いて、顎を摩るようにして口元を手で隠して独りごちる。声は、傘を打つ雨音よりも小さなものだった。
悶々としていると、コンビニから出てきた乃木さんが、買ったばかりのビニール傘を広げた。
「お待たせ」
雨足は、弱まっていた。
東京が梅雨入りした頃、乃木さんと俺は任務でA国の某所を訪れていた。
郊外のホテルで数日間共に過ごしているが、俺の胸の中にある感情は、相変わらずだった。ノートパソコンと向き合う乃木さんの隣で画面を覗き込み、時々簡潔的なやり取りをしている今も、めらめらと燃えて胸を焦がしている。
「これでいい。今夜は、もう休もう」
乃木さんがパソコンを閉じた。壁掛け時計を見ると、時刻は午後11時半を過ぎていた。明日は昼にはここを出て、市街地に移動することになっている。
乃木さんのあとにシャワーを浴びた。部屋に戻ると、乃木さんは自分のベッドに腰掛け、こめかみを抑えていた。
「頭痛ですか?」
「ああ、うん、少し……目がね。いつものことだから、気にしないでくれ」
乃木さんは曖昧に言って微苦笑した。
ベッドに入り、ナイトテーブルの燈を消して間もなくして、乃木さんの苦しげな唸り声が眠気の霧に覆われはじめた意識を覚醒させた。
「……乃木さん?」
隣のベッドに顔を向ける。暗闇の中で、乃木さんの低い呻き声が響く。
悪夢を見ているのか、乃木さんはこんな風にうなされる時がある。今夜は特に苦しそうだ。
「……乃木さん」
声を掛けるが、反応はない。ベッドから起き上がり、手探りでランプの燈を点ける。乃木さんは仰向けでうんうん唸っている。
傍に寄ってベッドに浅く座り、乃木さんの顔を覗き込む。目尻から涙が一粒溢れ、真っ直ぐに流れ落ちていった。
「乃木さん」
揺さぶり起こそうとして――乃木さんが目を開けた。
「僕をひとりにしないでっ」
ガウンの襟元を強く掴まれ、引っ張られた。体勢を崩して、顔がぶつかる直前でなんとかシーツに腕を突っ張った。鼻先で乃木さんの熱い吐息が弾む。見開かれた目には涙が溜まっていた。
「く、黒須?」
状況を理解しようとして、一刹那濡れた眸が左へ右へと泳いだあと、俺に向いた。夢を見ていたことに気付いた乃木さんは顔を顰めた。俺のガウンを握っている手は微かに震えている。この震えが力みによるものなのか、動揺によるものなのか、わからない。
「僕は、混乱しているみたいだ。情けない……」
乃木さんは泣くのを堪える子供に見えた。
夢に見るほどの傷を心に負った出来事がなんであれ、俺はこの人の過去を知らない。俺の知らない乃木さんが存在することに苛立ちと悲しみさえ覚える。しかし、過去になにがあっても、俺はこの人の全てを受け容れられる。俺は、この人の傍にいたいのだ。この人を支えたいのだ。俺は、誰よりも深くこの人のことを……
――ああそうか、この感情は。
「大丈夫ですよ」
乃木さんの手を包み込み、薄く開かれた唇を塞いだ。唇はかさついていたが柔らかい。男にキスをしたのははじめてだった。
目を閉じて、十秒ほどそうしていた。息を継ごうと離れる。乃木さんの目はまんまるだった。手の震えはおさまっていた。
「落ち着きました?」
鼻先が触れそうな距離で囁く。一拍置いて、乃木さんはこくこくと頷いて、俺のガウンを掴んでいた手で、おそるおそると言わんばかりに自分の唇に触れた。
「なんで――」乃木さんはまた泣き方な顔をして「君は、厭じゃ、ないのか? 僕は、男……なのに」消え入りそうな声で言った。
「あなただから、するんです。俺は、乃木さんのことが……好きですから」
胸の中でゆらゆらと揺れていた火が燃え盛る。男同士の間に芽生えるには似つかわしくない感情であることはわかっている。それでも、火の勢いを抑えることができなかった。
俺は、この人のことがどうしようもないくらい好きなのだ。
そう認めると、不思議と心が凪いだ。
「俺は、あなたをひとりにしたりしません、どんな時もあなたの傍にいます。だから、もっと俺を頼ってください」
「黒須……」
「好きです、乃木さん」
「……っ」
頬に乃木さんの指先が触れた。輪郭をなぞるようにして滑る指を握り、頭を傾けて、そっと距離を詰める。乃木さんが目を閉じた。愛おしさが込み上げて、ベッドに身体を乗り出して、頼りなく見える身体を強く抱き締めた。
「くろ、す」
「ここにいますよ」
腕の中で、強張っていた身体から力が抜けるのがわかった。乃木さんの小さな息遣いが耳朶を擽る。
「すまない。しばらく、このままでいさせてほしい」
乃木さんは俺の首のうしろに手を回した。
「はい。傍にいます」
血の流れが速くなっているのか、身体が火照り、穏やかに上下する乃木さんの背中に回した手が熱くなった。安息はシャンプーの香りがした。このまま共に眠りについて、夜が明けてしまえばいいと思えた。
夜の帷の内側で、唯一無二の親しみがゆっくりと溶けていく。