ヘパイストスと主2

 

 その人は美しく、気高く、優しい人だった。
 オリュンポスの最初の支配者で、創造神。蛇神の妻で、俺の母様……一緒に過ごした九年間の中で、注がれた愛情を忘れたことはない。俺を呼ぶ声も、俺に向けてくれる微笑みも、俺を抱き締めてくれた時の体温もすべて覚えている。
 この東京で再会を果たした時、夢を見ているのかと思った。姿は変わっても、母様はきらきらと輝いていた。俺の母様。どうか俺を、昔のように――。

 

 日が昇って、徹夜明けにシャワーを浴びて、まだぼんやりとする頭のまま眠気覚ましにコーヒーを淹れた。古びたマグカップを口元で傾けて濃いブラックコーヒーを啜ると、苦味よりも熱さで目を覚めていった。
 いつものようにみんなで朝食を食べ、工房に戻ってタロスのメンテナンスを終える頃には、正午前になっていた。
「創造者、訪問者のようです」
 アイカメラを入口に向けてタロスが言うと同時に
「ヘパイストス、いるー?」
 静まり返った機械油の臭いが漂う工房に似つかわしくない明るい声が響いた。スパナを手にしたまま弾かれたように首を巡らせると、高校の制服に身を包んだ母様がゆったりとした足取りで階段を降りてくるのが見えた。
「あ、よかった。いた!」
 離れた場所から目が合うと、母様は白い歯を見せて笑った。
「母様、ど、どうしたんだ……?」
「遊びに来たの。事前に行くねって連絡したんだけど、返信がなかったから直接来ちゃった。大丈夫だった?」
「あ、ああ。母様ならいつだって歓迎だ……母様が来てくれるのは、う、嬉しいぞ」
 母様が目の前で立ち止まると、甘くていい匂いが鼻先を掠めた。
「か、母様、学校はどうしたんだ?」
「今週はテスト期間だったから午前中には終わりなの。ヘパイストスと一緒にお昼ご飯食べようと思って」母様は提げていた紙袋を胸の前まで持ち上げた。「お弁当作ってきたんだ」
「弁当」復唱すると、胸の奥が熱くなった。「か、母様の手料理を、俺なんかが食っていいのか?」
「もちろん。この前話してくれたでしょ、〝昔〟はいつも一緒にご飯を食べたりお風呂に入ったりしてたって。お風呂はさすがに一緒には入れないけど、料理なら私にも作れるからさ」
 友達に教わりながら作ったんだけどね、と気恥ずかしそうに笑って、母様は俺を見上げた。ぱっちりとした黒々とした眸には、醜い俺が映っている。
「一緒に食べよ。タロスも食べられる?」
「タ、タロスは——」タロスが答えるよりも先に切り出したが、言葉は続かなかった。顔を顰める。母様の手料理を独占したかった。「俺は母様と……」
 途端に、醜い俺がそんなことをしてもいいのだろうか、許されるのだろうかという後ろめたさが熱くなった胸に汚水をぶちまけて冷まさせていった。歯切れ悪く言って俯くと、母様のたおやかな手が垂れ下がっていた俺の手を取った。
「じゃあ、母様と一緒に食べよう。〝昔〟みたいに」

 母親が子に向ける愛情というものがわからない。
 私には母との記憶はない。ヘパイストスの育ての母であるエウリュノメーでもない。それでも、彼が私を「母様」と慕ってくれるのなら、ヘパイストスの胸の奥にいる小さく幼い彼が母を求めているのなら、少しは応えてあげたいと思う。彼は生まれてすぐに実の母親から捨てられ、愛情を注いでくれたエウリュノメーとも生き別れてからひとりで生きてきたのだ。大切な人を慕い、想い焦がれる気持ちはわかる。
 私がヘパイストスに抱くこの愛は、母子の情に見せかけた哀れみ、つまるところ偽りのものなのかもしれない。そう思うと後ろめたさに似た気持ちが胸を灼いていくが、作ってきたお弁当を「美味い」と喜んで食べてくれるヘパイストスを見ていると、私は彼を憐れんでなどいないと強く思える。
「あのね、私はお母さんが子供に注ぐ愛情というのがわからないけど、ヘパイストスのことを大切に思ってるよ」
 正直にそう言ってちょっと不恰好な卵焼きを食べさせる。ヘパイストスは涙目になって「お、俺も母様のことを大切に思ってる」言った。
「ありがとう。すごく、嬉しいよ」
 ヘパイストスの頬に触れる。「母様が穢れちまう」と彼は震えたけど、構わずに親指の腹で頬骨をなぞった。
 エウリュノメーがヘパイストスに向けた慈愛を、「私」は与えられない。だけど、親愛には様々な形がある。「私」がヘパイストスに与えられる愛の形はなんだろう――。
「母様……俺は、母様が、だ、大好きだ。昔みたいに、俺を、愛してほしい……」
 心地良さそうに掌に頬を押し付けるヘパイストスの大きな身体を抱き締めようと距離を詰める。柔らかな日差しのように眩しくて、火のように暖かい愛情がふたりの間で形を成した。