山の翁とティアマトとぐだ子

 朝食を食べ終えて食堂を出ようとした時、厨房から出てきたティアマトに呼び止められた。
「持って行け。母特製の、お弁当だ」
 渡されたのは、黄色いランチクロスに包まれたお弁当だった。いつも朝一番に顔を見せるのに、今朝は姿を見掛けないことを不思議に思っていたが、まさかここでお弁当を作っていたとは思わなかった。
「立香は、甘い卵焼きが好きだと聞いたから、多めにいれたぞ」
「ありがとう」
 彼女の愛が詰まったお弁当箱は小振りだが、ずっしりと重たい。
「お昼に食べるね」
「たくさん食べるのは、いいこと」
 ティアマトは微笑んでから「実は、まだお弁当を渡したい人がいるのだけれど、どこにいるのかわからない。探すのを手伝ってくれたら、嬉しい」困ったように眉を垂らした。
「いいよ。誰に渡すの?」
 小首を傾げると、ティアマトは剣呑と眉を寄せて「翁だ」小さな声で言った。
「えっ」薄く開いた唇の間から吐息が漏れた。

 第七特異点で人類悪として降臨した第二の獣であるティアマトは、不死の力を持っていた。死を知らぬ獣に「死の概念」を与えたのは、山の翁だ。
 彼は命が有限であることを差し示すだけでなく、獣の翼を大剣の一振りで斬り落とし、地に堕とした。彼は冠位を返上し、活路を切り開いてくれたのだ。
 そのティアマトが、倒された記憶を持ったまま新生してノウム・カルデアに召喚された。
 だが、今のティアマトは、獣ではない。人類に対する深い愛情を持った〝母〟だった。人類が滅亡すれば、第七特異点で敗れたことが無意味になると彼女は言い、わたしたちに力を貸してくれている。
 そんな彼女が、かつて己から不死の力と両翼を奪った暗殺者にもお弁当を作り、それを渡したいと言っている——協力しなければならないと強く思った。
「キングハサンなら、わたしの部屋にいるよ」
「ほ、本当か? よし、行こう」
 ティアマトは一度厨房に戻ると、黒い包みを抱えて戻ってきた。山の翁の分のお弁当は、わたしのお弁当より少し大きい。
 ふたりで食堂を出て、部屋に向かう間、ティアマトは一言も喋らなかった。「大丈夫?」と訊ねると、唇を引き結び、こくこくと頷いた。
 自室のドアのロックを外して中に入る。中には誰もいないように見えた。
 しかし、山の翁は、艦内の夜警にあたる時以外は、気配を消してわたしの部屋にいる。わたしの働きぶりを見ていると言っているが、本当は、護ってくれているのだ。
「ここに、いるのか?」
「うん。絶対にいる」
 山の翁は他のサーヴァントたちとは交流は持たない。テスカトリポカだけはよく絡むが、あまり相手にされていない。間に挟まれて殺伐とした会話を聞かされるわたしの身にもなってほしい。
「キングハサン」
 辺りを見回して呼び掛けると、山の翁が目の前に音もなく現れた。彼が纏う黒色の甲冑は、天井から差す白い燈すら吸ってしまう。
「はっ! 翁!」
 うしろからティアマトのひっくり返った声がした。
「何用か、契約者よ」
 山の翁の髑髏を模した仮面の眼窩の青い炎が小さく明滅する。視線が一刹那ティアマトに向いたのを見逃さなかった。
「贈り物があるんです。ティアマトがあなたにお弁当を作ったんです」
 首を巡らせてティアマトを見る。彼女はお弁当を胸元まで持ち上げて、小柄な身体を震わせていた。
「母は、ちょっとビクビクしながら、翁にもちゃんと、お弁当を渡すのです」
 ティアマトは包みの結び目を握り締めて、両腕を突き出して翁にお弁当を差し出した。
「ファラフェルを、作った。食べてくれたら、母は嬉しい」
 山の翁は微動だにしなかった。ただティアマトを見下ろしている。重苦しい沈黙が間に落ちてきて、わたしの足元に転がった。
「獣の施しは受けぬ」
 地の底から響くような声が沈黙を破った。
 ティアマトの肉の薄い肩が強張るのがわかった。
 山の翁は誇り高く厳格な人だ。こうなることを予想できなかった己を責めた。
「わ——わたしっ」咄嗟に声を上げていた。「キングハサンと一緒にお弁当食べたいですっ」
「……立香……」
 振り向いたティアマトの大きな目には涙が溜まっていた。
「あなたとファラフェルを一緒に食べたい。だめ、ですか……?」
 山の翁の祖である彼が、第六特異点で助言をしてくれたことも、先陣を切って戦ってくれたことを覚えている。第七特異点での死闘も忘れたことはない。
 わたしは山の翁が大好きだ。どんな時もそばにいてくれることに感謝している。それでも今はティアマトの想いを無碍にはしたくなかった。
 山の翁の視線がお弁当に移り、すぐにわたしに向いた。唯一感情が窺える双眸は、物悲しそうに瞬いている。
「貴殿の望みとあってもそれは努められぬ。我は元より骸。食とは生者の営みなり。故に我には不要」しかし、と彼は語を継いだ。「貴殿の顔を立てたい。此度の獣の深切、受け容れよう」
「ありがとうございます」
「……翁! 母は、母は嬉しい……!」
 山の翁を見上げるティアマトの声には喜びが溢れていた。
「さあ、立香、翁の分のお弁当だ。たくさん食べるんだぞ」
「わっ」
 両手でお弁当を抱える。ティアマトから託されたお弁当はとても重かった。山の翁のために、いっぱい詰めたのだろう。思わず笑みが零れてしまう。
「キングハサン、今から素材を集めに行こうかと思うんです。一緒に行きましょう。お昼は、現地で食べます」
「請け負った」
 三人で部屋を出て、管制室までの道のりをゆったりとした足取りで歩いた。
「立香」
 ティアマトが隣に並ぶ。頬がほんのり上気している。
「ありがとう」
 柔らかな微笑みは、慈愛に満ちていた。
 ティアマトに笑みを返して、うしろを歩く山の翁をちらりと見上げる。すぐに目が合った。対の青い炎は親しみと慈しみを宿して揺れている。
 彼の分のお弁当も、完食してみせよう――。
 ふたりから伝わる親愛に包まれながら、お弁当を抱く手に力を込めた。