ヴェクナは、『忘れ去られた遺跡』に誰かが入り込んだ気配を感知した。
気配はヴェクナのいる遺跡の地下に少しずつ近付いてくる。
霧に覆われたこの領域には、儀式を通して箱庭の主に生贄を捧げる殺人鬼か、狩られるだけの無力な生存者しかいないが、儀式以外で羊が狼の縄張りに迷い込むはずがない。
手にした魔導書を閉じて棚に戻し、視軸を入口に向けた。間隔はバラバラだが、足音は複数人分だ。金属が敷石を打ちつける、かつりかつりという無機な音が大きくなって、やがて部屋の仄燈が大柄なシルエットを暴いた。
現れたのは、ボロボロの深紅のマントと、血と錆がこびりついた甲冑を纏った騎士だった。兜の眉庇の端から、褐色の長い髪が無造作にはみ出ていた。騎士の背後には、配下だろうか、三人の異形じみた男たちが並んでいる。
「お前がリッチか」
騎士はヴェクナを見るなりぶっきらぼうに言った。無礼なやつだと思いながら、ヴェクナは戻したばかりの魔導書の背表紙を指先でなぞった。
「私の名をずいぶん気安く呼んでくれる。騎士ならば、名乗ったらどうだ」
「俺はタルホーシュ・コバッチ」
歩を進めながら騎士は名乗り、ヴェクナの傍で立ち止まった。彼は宙に浮くヴェクナよりも背が高く、大柄だった。
「答えてくれ。魔法は、本当に存在するのか?」
タルホーシュの質問に、思わず笑いが込み上げたが、なんとか噛み殺した。どうやら、この騎士のいた次元では、魔法を使う者はいなかったらしい。それならば、疑問を抱くのも当然だろう。
「する、とも。お前が知らない次元の、古の時代からな」
「魔法は、なにができる?」
「極めれば、思うがままだ」
「お前はなぜこの霧の森にきた? 思うがままになるなら、魔法で拒絶することもできたんじゃないか?」
タルホーシュは訝しんでいるようだった。ヴェクナは忍び笑いをして「私は」切り出した。
「悠久の時を生きる中で、あらゆることを識り、様々なものを視た。悉くを殺し、この手で数多の次元を支配してきた。だが、この私にも識らないことがあった。どうしても識りたかった。幾日も思考した末に、理解した。そして、霧が立ち込めた。お前のいう通り、魔法で霧をはらうこともできたが——覗いてみたくなった。底知れぬ深淵を」
稀代の魔術師であり、あまねく世界の神であるヴェクナは、喉の奥で低く笑って、己の肋骨の間にしまいこんだ〈不浄なる暗黒の書〉に手を置いた。
「私はこの次元を征服する」
「この霧の森を、支配するだと?」
「そうだ。神を殺し、この世界を手に入れる」
神殺しと征服——それがヴェクナの目的だったが、箱庭の主という存在は未知で、剣の切っ先はまだ届きそうになかった。故に、不服だが、今は他の殺人鬼と同じく生贄を捧げている。
「世界そのものを望むとは、野心家だな」
「お前が望むものはなんだ、タルホーシュ・コバッチ。すべてを支配できる力か? 永劫残る名声か? それとも、生も死も超越することができる肉体か? 私に従うのなら、与えてやろう」
「そんなもの、絵空事だ。手に入るわけがない」
「私に忠誠を誓うのなら、対価は与えるとも」
ヴェクナはタルホーシュを視線だけで見上げ、もう一度問うた。「お前が望むものは、なんだ?」
視線が交わり、粘ついた沈黙が降り注いだ。タルホーシュのうしろでは、三人の男たちが石像のように固まっている。
「俺が望むのは、死と破壊と沈黙だ」
燭台の火が風もないのにいっせいに揺れ、壁に貼りついたタルホーシュの影が大きく歪んだ。影はまるで魔物のようだった。
「暴力によって蹂躙された世界の美しさを知っているか? 燻ぶる夜空の下で、血で赤く染まった大地を燃え盛る火が舐め尽くす……俺は子供の頃に見たそんな光景を追い求めている。あの時の崇高な光景を再び見られるのなら、なんだってする」
死と破壊と沈黙——それは、ヴェクナも好むものだった。
「権力も、名声も、富も、不死の肉体もいらない。俺はただ、闇が見たい。お前は俺の望みを嗤うか?」
「嗤うものか。私はお前の中にある渇きを理解できる。如何に追い求めても決して満たされることのないものだ」
それは事実だった。ヴェクナが求めてやまない知識や秘密は、どんなに蓄積しても足りないのだ。
「お前を魅了してやまない美しい世界を、私は知っている」
「あの超越した世界を、知っているというのか」
「知っている。私は傲慢な神々と善なる者を滅ぼし、あらゆる次元の頂点に君臨してきた。屍山血河の歴史を生み出してきたのだ」
ヴェクナは喉を震わせて低く笑った。
「タルホーシュ・コバッチ。私がお前に最も邪悪な闇を見せてやろう」
「お前は理解しているんだな。闇と死に満ちた世界こそが、真理であると」
タルホーシュが息を呑む気配がした。
「神を殺し……この世界を壊す……そんなことが、できるのか?」
「私は思い描いたことは成し遂げる。成し遂げてきた。今までそうしてきたように、必ずこの世界も手に入れる。……たとえ何世紀掛かろうとな」
左手を握り締めると、胸に抱いた野心が熱を帯びた。
「俺がお前の騎士になろう。俺が、すべてを斬り伏せてやる」
右手を心臓の辺りに添え、タルホーシュは言った。
ヴェクナは目を細めた。一刹那の間に様々な考えが頭の中を巡った。
腹心は必要だ。しかし、裏切りに遭うかもしれない。かつて味わった屈辱を忘れたわけではない。
「跪いて、私に忠誠を誓えるか?」
タルホーシュのうしろで微動だにしなかった三人の男が威嚇するように太い声を上げて数歩踏み出したが、タルホーシュは片手を上げて彼らを制し、ゆっくりと跪き、兜を外した。蓬髪の間から見える目は昏く、奈落そのものだったが、真っ直ぐに己を見詰める眸に獣のような飢えがちらついているのをヴェクナは見逃さなかった。
——この男は、邪悪だ。
彼はヴェクナの右手を取ると、うやうやしく甲に口付けた。
「これでお前は私のものだ」
タルホーシュを見下ろしたまま、ヴェクナはほくそ笑んだ。
その日以来、タルホーシュは『忘れ去られた遺跡』をよく訪れるようになった。
ヴェクナは、彼にも、その配下の三人にも——鎧職人でありながら、武器の扱いにも長けたアレハンドロ・サンティアゴ、闇の中に生きる暗殺者、デュルコス・マレセク、圧倒的な巨躯を誇る戦斧使いのサンダー・ラウト——これといって興味を示さなかったが、タルホーシュはヴェクナ自身のことや、霧に満たされたこの場所とは異なる領域のことを知りたがった。
次元を超えたいくつもの世界に君臨していたヴェクナは、彼の知らない別世界の話を少しだけしてやった。タルホーシュは、質問を交えつつ、聞き入った。
「昔、異端審問官の拷問を受ける女を見たことがある」
タルホーシュは身じろぎして椅子に座り直した。
「女はなにも知らないと言って命乞いをしていたが、お前の話を聞いていると、その女は本当に魔女だったのかもしれないと思えてくる」
ヴェクナの脳裏に、魔女狩りで処刑された母の顔が浮かんだ。今はもう、ぼやけて不明瞭な顔が。
「だが、俺が見た女はたしかに人間だった。異端審問官は女に言った。『悪魔と契約をして魔術で人々を惑わす、神に背いた堕落者め』と。結局女は火炙りにされて処刑された。最期まで女は『私は善人です』と主張していた。広場に集まった村人は女が黒焦げになるまで罵っていた。火が消えてから人々は言ったんだ。『悪人が死んだ』ってな」
「お前はその女を善人だと思うか? それとも、悪人だと?」
「そんなこと、考えたくもない」
タルホーシュは溜息をついた。
「いや……どうでもいいんだ。善悪などという漠然としたものは、俺にとってなんの価値もない。世界の一部として存在しているだけのものを、なぜ人は線引きしたがる?」
タルホーシュの価値観は、崇高な騎士に宿る精神とはかけ離れていた。
血のにおいを漂わせたこの男は、大勢の人間の命を奪ってきたに違いないが、罪悪感を一片も感じていない。なんて素晴らしい邪悪な人間なのだろう! この男は、忠臣となるに違いない——ヴェクナは確信した。
「かつて俺に正義と秩序を語った男がいた。俺の行いは不義であり、野蛮だとな」
憤慨したのか、声を震わせ、タルホーシュは拳を膝に打ち付けた。金属がぶつかり合う硬い音が跳ね、冷たい残響が静寂を震わせた。
「リッチ、お前も俺に秩序を守れと言うか?」
「正義などというくだらないものは私が打ち砕いてやる」
ヴェクナは宙に浮いたままタルホーシュとの距離を詰め、彼の兜の面頬に手を添えて囁いた。
「お前こそが秩序だ、タルホーシュ」
儀式に選ばれたのはタルホーシュだった。
生存者を皆殺しにして儀式を終えたばかりのタルホーシュは、剣にこびりついた脂も、甲冑に浴びた血を拭うこともせず、血腥い興奮を抱いたまま、まっすぐに『忘れ去られた遺跡』へ向かっていた。
沸き立つ血がヴェクナを求めていた。
「リッチ——リッチ……!」
タルホーシュに怯えたネズミが敷石の端を走り抜けていく。
ようやくヴェクナを見付けると、彼は安堵を感じて溜息をついた。
「そう何度も呼ばずとも、聞こえている」
「お前を呼んでいた? 俺が? ……そうか」
タルホーシュは、彼を何度も呼んでいたことにすら気が付いていなかった。
「お前に——」
言いかけて、タルホーシュははっとして言葉を飲み込んだ。
会いたくなったとは言い出せなかった。
思えば、儀式の間も彼のことばかり考えていた。彼の眼差しを、彼の囁きを欲していた。彼は、自身の価値観を肯定してくれたはじめての相手だ。だからこんなにも執着してしまうのかもしれないと、タルホーシュは兜の下で自嘲した。
「私に、なんだ?」
「……大したことじゃない」
「聞いてやってもいい」
「気にしないでくれ。それよりも……」なんとかして話題を切り替えたかった。「臆病者の相手をして、ひどく疲れた」
「それなら私の元に来るのではなく、どこかで休めばよかっただろう」
「お前の傍で眠りたい」
「好きにしろ」
「そうする」
座り込み、壁に寄り掛かってタルホーシュは眠った。この森に来て、無防備な姿を配下以外に晒すのははじめてだった。
どれくらい経ったか、目が覚めたタルホーシュが最初に見たのは、本棚の前に立つヴェクナの背中だった。夢も見ずに熟睡したのは久し振りだった。
「起きたか、タルホーシュ」
「俺はどれくらい寝ていた?」
「さあな」
タルホーシュは立ち上がり、肩越しに振り向いたヴェクナの方へ鷹揚と歩きながら、彼を呼ぼうとして、ふと、彼にも名があるのだろうかと、寝起きの頭でぼんやりと考えた。
「なあ、リッチ。お前の名は、本当はなんていうんだ?」
「……私の名、だと?」
「ああ。教えてくれないか」
「本当に、知りたいのか?」
突然眼光が鋭くなった。
「私を恐れるあまり、私の名を口にする者は数百年間誰ひとりとしていなかった。私が聞いているからだ。私の名を口にするならば、誰であれ、どこにいようとも、罰を与える。それでも私の真の名を呼ぶ覚悟はあるか、タルホーシュ」
視線は、高鳴っているタルホーシュの心臓を貫いていた。
「俺はお前を恐れてなどいない」タルホーシュは跪いた。「俺はお前の騎士だ。お前のために剣を取る。誰であれ、どこにいようとも、俺が必ず殺す。だからどうか、その名を呼ぶことを許してほしい」
ヴェクナはタルホーシュを見下ろし、唇を引き結んだ。
忠義の証をくれてやってもいいと思えた。かつて腹心に裏切られて目と手を失ってから、二度とそんなことはしないと誓ったはずなのだが——タルホーシュになら、与えてもいいと思ってしまった。
「……ヴェクナ。それが、私の名だ」
タルホーシュは兜を外し、あの夜のように、うやうやしくヴェクナの右手に口付けを落とした。
「ヴェクナ」
真の名を呼ばれても、不愉快ではなかった。
ヴェクナが深い闇にも似たタルホーシュを気に入るのに時間は掛からなかった。
夜な夜なともに過ごすうちに、いつしか最も近い存在になっていた。凶暴さを秘めたタルホーシュを首輪と鎖で飼い馴らすつもりだったが、鎖を引かずとも、タルホーシュは影のようにヴェクナに寄り添っている。
儀式はヴェクナが終わらせた。
宝を奪う盗人どもを——四人の愚かな生存者——ヴェクナは早々に始末した。
箱庭の主の機嫌はよかった。それが不愉快だった。腹の底から沸々と湧く怒りを噛み締め、ヴェクナは誓った。いずれこの領域も支配してやろう。神をも超えてみせよう、と……。
ヴェクナが『忘れ去られた遺跡』に戻って間もなくして、タルホーシュがやってきた。
「儀式はどうだった?」
「呆気ないものだった」
ヴェクナは無意識に肋骨の間にしまった書物の表紙を撫でた。
「顔に血がついているぞ」
「盗人の血か。忌々しいな……どこだ?」
「俺が拭った方が早い。触れてもいいか?」
「構わない」
タルホーシュの手が伸びてきて、革に覆われた指の背が左頬に触れた。血を拭うだけなのに、彼の指はすぐにはヴェクナから離れない。
「取れたか?」
タルホーシュは答えない。代わりに、熱のこもった視線が注がれているのをヴェクナは感じた。血のにおいが、彼の中にある残虐性をくすぐったのかもしれない。
「どうした? タルホーシュ」
ヴェクナはわざとタルホーシュの指に頬を押し付けるように頭を傾けて、喉の奥でくつくつと笑った。
かすかな血のにおいがふたりの間を漂う。タルホーシュの息遣いには、興奮が混じっていた。
「お前に、もっと触れてもいいだろうか」
「妙なことをいう。なぜ私に触れたい?」
「理由などない。お前に触れたい」
「絆されたのか? いいだろう。お前が昂ぶりを抑えきれなくなったら、抱擁でもしてやる」
ヴェクナはらしくもない軽口を叩いて背中を向けた。
その晩、タルホーシュは濃い血のにおいを漂わせてヴェクナの前に現れた。
甲冑も、はみ出した髪も、破れたマントも、血塗れだった。儀式で三人の配下たちと生存者を嬲り殺したのだろう。
「ヴェクナ、ああ……ヴェクナ」
タルホーシュは息を荒げ、大柄な身体を屈めて、黄金色の液体が入った瓶が並んだテーブルの前にいたヴェクナにのしかかった。
「なにを、する」
「抑えられそうにないんだ」
もつれ合うようにして密着した身体がテーブルにぶつかり、振動で瓶の中の液体が大きく波打ち、端にあった砂時計がぐらぐらと揺れた。肩口に兜を埋めてふっふと息を乱すタルホーシュに強く抱き締められて、ヴェクナは身動きが取れなくなった。
「離せ、タルホーシュ」
「お前は言った。俺が昂ぶりを抑えきれなくなったら、抱擁をしてくれると」
「本気にするな、あれは戯れだ」
「戯れでもいい。ただ、今だけは俺を抱き締めてくれ」
「……このっ……」
ヴェクナはタルホーシュの両肩を咄嗟に掴んだ。掴んで、そのまま——離した。魔法を使えば抵抗できるが、なぜか、振りはらおうとは思わなかった。
「ヴェクナ」
「……っ……」
耳元で名前を囁かれ、下半身に、甲冑のパーツとは違う硬いものが当たっていることに気付いた。血のにおいに情欲の芳香が混ざる。額が触れ合いそうな距離で見詰め合った。視孔から見えるタルホーシュの眸に、粘ついた執着の炎が盛っている。
「……ヴェクナ」感じたことのない灼熱がヴェクナの魂を震わせた。それは彼がとっくのとうに忘れていた、形のないなにかを駆り立てた。
——絆されているのは私の方だったか。
「……俺は、お前がほしい」
「なぜそこまで私に執着する」
「お前が俺を肯定してくれた時、俺は救われた」
「それだけの理由で私を求めるのか?」
「それだけで十分だ。俺は、お前といるだけで満たされるんだ」
「お前がどんなに私を求めようとも、私はお前の手に負える存在ではない。私はお前をただの駒としか見ていないかもしれないぞ。それでも私を欲するか?」
「俺の手に負えるくらいなら、求めたりしない。お前はこの霧に覆われた世界でさえ支配するといった。その野心が俺の心を震わせる」
タルホーシュは溜息をついた。
「死と闇の美しさを知っているお前がどうしようもなく羨ましい。お前が見た楽園を、俺も見たい」
渇望は血のにおいがした。
「お前のために、この世界のすべてを奪って、壊して、皆殺しにしてやる。だから——俺のものになってくれ」
彼の執着は、ヴェクナの魂に絡みついた。
「私を求めるのなら、決して裏切るな」
「そんなことはしない。お前は俺の一部なんだ」
「生半可な覚悟ではないようだな」
「当然だ。お前に忠誠を誓った時から、覚悟は決めている。俺は、お前の騎士だ」
「……フン。こんな状況でなければ、感動的なセリフだな」
ヴェクナは囁いて、長い指でタルホーシュの股座を撫でてやった。ブレー越しに、熱を持つ男の本能を感じた。
「っ、う……」
「儀式で盛るな」
緩急をつけて、硬くなった男の本能を撫で摩り続けた。やがてタルホーシュの兜の内側にこもる吐息と、ヴェクナの間遠な息遣いが重なった。ヴェクナの下腹部に——といっても骨を繋ぐだけの筋肉しかついていない彼にとって、正確にはそこは骨盤だが——張り詰めた股間を押し付け、タルホーシュは小刻みに腰を前後させはじめた。
頭が切れる策略家らしく、普段は冷静で理性的なくせに、今は男としての本能を隠そうともしない。まるで盛りのついた獣のようだ。
湿った吐息と衣擦れの音だけが続き、やがてタルホーシュは唸った。
「……射精そうだ」
「このまま果ててしまえ」
「ぐ、ぅ……っ……ヴェクナ……!」
盛り上がった股間に置いた掌の下で、膨らんだ欲望がびくびくと脈動しているのを感じた。
「まったく……お前は……不敬だな」
ヴェクナは呆れて首を振った。掌には、淫らな熱の名残が残っていた。
『忘れ去られた遺跡』は、燈が少なくとも、明るい場所が一か所だけある。
それはきっとこの天井のおかげだろうとタルホーシュは思う。夜空にも似た濃い紫の天井には、いくつもの金色の紋章——魔法陣というらしい——が浮かび上がっていて、それ自体が輝いているのだ。はじめて見た時は驚いたが、今はすっかり慣れた。
得体の知れない魔術の道具、額縁に入った絵画、山積みの書物、いくつもの大きな本棚……タルホーシュにはそれらの価値はわからないが、まるで、叡智のすべてがここにあるようだった。
遺跡の地下にあるこの部屋を、ヴェクナは好んでいる。
その部屋で、タルホーシュはヴェクナを求めた。
はじめは前垂れを捲って、ブレー越しに慰めてもらうだけだったが、それだけでは足りなくなった。用を足す時と同じく、ブレーの前を寛げ、手に負えなくなった熱を直接冷ましてもらうようになった。
今も、タルホーシュはヴェクナを感じている。
「……ぐう、ぅ」
ヴェクナの長い指がタルホーシュを包み込んで、強弱をつけて上下に動いている。どっぷりと溢れた先走りが潤滑油の代わりになって、動きはスムーズだった。粘膜と掌が擦れて、ぬちりぬちりと粘っこい音が跳ね、タルホーシュの鋭い息と混ざり合った。
法悦が頂点に達しようとした時、ヴェクナは手を止めた。
「耐えてみせろ」
囁きは、タルホーシュの性的興奮をあおった。ヴェクナの指が、血管の浮いた陽根の側面をなぞる。根本まで下がったかと思えば、焦らすようにせり上がる。括れた傘下までだらだらと先走りを垂れ流す先端を、すべての指で摘まむように撫でられた。
「……ヴェク、ナ、っ……イかせてくれ」
息を乱しながら震える声で紡いだ。
「仕方のないやつだ」
落ち窪んだ眼窩にある眸を細めて、ヴェクナは小さく笑った。
親指の腹で亀頭の天辺を詰られ——タルホーシュは果てた。濃い白濁はヴェクナの手の中で間歇的に溢れ出て、糸を引いて床に滴り落ちた。
本棚の間に、生臭い静けさが戻ってくる。
「満足か?」
白く濡れた手をまじまじと眺めてヴェクナは言う。
「……まだ、足りない」
タルホーシュは兜の内側で熱っぽく息を吐いた。
「抱かせてほしい」
「笑わせてくれる。この身体には排泄器官も臓器もない」
「そのローブの下はどうなっている?」
タルホーシュは寄り掛かっていた本棚から離れ、浮いているヴェクナの腰に手を回し、反対側の本棚に押し付け、ローブを掴み、容赦なく捲り上げていった。ヴェクナは抵抗しなかった。呆れた顔はしていた。脛は骨そのものだったが、膝の関節部分から大腿骨にかけては、骨と骨を繋いでいる、身体を形成するための薄い筋肉がついていた。覗き込んでみると、足の付け根には本来男にはあるものはない。なだらかな肉の丘があるだけだ。
骨と肉。ローブの中にあるのは、それだけだった。
「……満足か?」
ヴェクナはまたそう言って鼻を鳴らした。
今度は、タルホーシュはなにも言わなかった。ローブの布地を掴んだまま、筋膜に覆われた骨盤を見詰め、唾を飲み込んだ。結合した恥骨——そこには、窪みがある。
「…………」
タルホーシュは顔を上げると、勃ち上がって天井を向いたままの自身を握り、ヴェクナの太股のあわいに割り込んだ。
ヴェクナの細い身体と、タルホーシュの分厚い身体が密着する。
「なにをする」
「これで、いい」
タルホーシュはヴェクナの恥骨の窪みに性器を擦り付けるように腰を前後させた。たしかに感じる股座の柔らかな感触に、呆気なく沸点に達してしまいそうだった。
黄金細工に覆われた幅広の骨盤のうしろに片手を回して抱え込み、息を荒げ、夢中で腰を打ち付けた。生身の肉と肉の摩擦は、まるで本当にヴェクナを抱いているかのような感覚だった。
「……っ」
されるがままに大男の体重を全身で受け止め、ヴェクナは歯を食い縛った。剥き出しになった股座だけがいやに熱い。タルホーシュの体液で恥骨のあたりが濡れている。
滾る血。男の本能。生の躍動………知を蓄え、秘密を暴き、長い時間を掛けて不死の肉体を手に入れたヴェクナとは無縁の、脆い肉体を持つ生者だけが抱く卑しい欲望。それを発散するために女のように扱われているのに、嫌悪感はなかった。
——この男ならば、許してしまう。神の座に上り詰めた私が、ただひとりの人間に対してここまで甘くなってしまうとは……。
短く唸り、ヴェクナはやぶれかぶれにも似た気持ちを存在しない心臓にしまいこんだ。
ヴェクナの額とタルホーシュの兜が重なった。至近距離で見詰め合っている間も、タルホーシュの腰だけがくねっている。互いになにも言わなかった。欲情した男の熱っぽい息遣いだけが弾み、劣情が煮えたぎっていた。ふたりの間で、死と生の境界線が曖昧になっていく。
不意に律動が止まり、緩やかに前後に行き来していたタルホーシュの性器が、恥骨の正面に押し当てられた。彼は性器を扱きながら、執拗にヴェクナの恥骨に先端を擦り付けた。
「射精す、ぞ」
「待て。私の許可なしに、勝手にひとりで済ませるな」
低い声で不機嫌そうに、ヴェクナはもう一度「待て」言った。
タルホーシュは素直に手を止めた。
「ヴェクナッ……」
沸点が間近なのだろう。余裕のない鋭い息を何度も漏らし、タルホーシュは巨躯を震わせた。
悦びにも似た支配欲がヴェクナの背骨を駆け上がる。
「いい子だ」
ヴェクナは喉の奥で笑って、張り詰めて硬くなった肉の剣を握っているタルホーシュの手を剥がした。それからほんの少しだけ浮上し、自身の恥骨の窪みに嵌めるようにして、そこへ跨った。
「っ、ぅ、ぐっ……」
「私がいいというまで動くな」
タルホーシュの兜の面頬を左右から挟み込んで引き寄せて、至近距離で命じると、ヴェクナは自ら腰を前後させた。たくし上げたローブを握るタルホーシュの手が震えだした。ゆっくりと肉と肉が擦れる。ぬちゅ、にちゅ、と粘っこい水音が跳ねた。
「んっ、ぐ……」
「私を見ろ、タルホーシュ」
腰を止めて、ヴェクナは兜を力いっぱい引き寄せ、眉庇と面頬の間から眸を覗き込んだ。
「私は必ずすべてを手に入れる。愚か者どもを屠り、箱庭の神を引き摺り下ろす。壊れた世界でともに甘美な闇を見よう。そして、私とお前で死を舞踏するのだ」
タルホーシュの眸はぎらついていた。
「俺は、お前のために剣を振るう」
「それでいい。永劫私にだけ従え」
ヴェクナは腰を動かしはじめ、掠れた声で続けた。
「私の元に必ず戻ってこい」
厚い肩に手を置いて腰を揺すりながら、優越感を貪った。
摩擦は緩やかに続いた。時々焦らすように腰を止めると、タルホーシュの息遣いが余裕のないものへと変わった。
「もう、限界だ」
天井を仰ぎ、彼はか細い声で言った。
「いいぞ」
ヴェクナはタルホーシュの耳元で囁いた。
「許してやる」
「……う、……っ」
恥骨の正面に宛がわれた陽根がびくびくと脈打つ。熱いものが間歇的に噴き出てヴェクナの股座を濡らした。長い射精だった。
「……はっ……」
息を吐き出したタルホーシュの手がローブから離れた。ヴェクナは、恥骨周りの熱さと、快楽の名残が内股を伝い落ちていく感覚を無視した。
「タルホーシュ」
萎えた性器をブレーにしまいこんで射精の余韻に浸かっているタルホーシュの胸元に、人差し指を突き当てた。
「私への忠誠を忘れるな」
「もちろんだ」
タルホーシュはヴェクナの手を取り、肉の薄い甲に鋼鉄の口付けを落とした。
「俺はお前の騎士だ。これからも、ずっとな」
視線が絡まった。間には、身を焦がすほどの灼熱があった。
死に畏敬を抱いているタルホーシュも、神の座に登り詰めたヴェクナも、互いの間に在る目には見えない粘ついた熱をなんと呼ぶのか、知らなかった。