角が欠けた古びた木製のチェス盤に並べた白黒の駒を眺め、視軸を手元に落として、真ん中の白のポーンを摘み上げて移動させたあと、少し考えて後手に転じた。
対戦相手はいなくとも――そもそも、チェスができるのはアマンダやダニーくらいだが、アマンダは儀式に行ってしまったし、ダニーは歯応えがない――頭の中で戦略を立てながら自分を相手にするゲームというのもまた一興だ。負けるのはいつも後手だが。
静かな研究所で小さな戦いは続き、やがて黒のキングは追い詰められた。
チェックメイト――。
声には出さず、椅子に踏ん反り返ったままほくそ笑む。最後の一手を決めようとした時、遠くでカラスが鳴いた。
意識をチェス盤から外す。
重い足音が書斎に近付いてくる。
開瞼器を外した目を細め、開口器で固定されていない唇を引き結んで、書斎の入口を凝視する。
背の高い痩せぎすの男――永劫闇と霧が立ち込める箱庭に新たに加わったばかりの――カレブ・クインが現れた。
「こりゃ驚いた。誰もいないもんだと思ってた」
彼は髭に囲われた薄い唇の片側を吊り上げた。彼のひしゃげた顎がさらに歪む。
「私はいつだってここにいますよ。ここは私の研究所なので。それで、何か用事が?」
カレブの不気味な笑みを見据えて、組んだ両手に顎を乗せる。
「なにもないさ。素早いネズミ共を追っかける時のための下調べにきただけだ。ガキンチョに案内されて他の場所も見てきたが、ここは面白い機械が多い。気に入った」
カレブのいう「ガキンチョ」というのはフランクのことで、悪意はなく彼なりの親しみを込めた呼び方であることを知っている。
フランクがカレブの銃をいたく気に入り、カレブもまたフランクの持つカセットテープとプレーヤーを気に入ったことが交流のきっかけであったことも知っている。
西部開拓時代を生きた手先が器用な凶悪なエンジニアを観察してわかったことだが、彼は機械に対して好奇心旺盛だ。愛すべきレリー記念研究所は、彼にとっては遊園地のようなものだろう。研究のために人体に多大な苦痛――いや、影響だ――を与えるものであっても、カレブには魅惑的な玩具に違いない。
「カーター、だったか? アンタ医者だってな」カレブは愛銃を手にしたまま、書斎に来たときと同じく鷹揚とデスクに寄ってきた。「怪我したら診てくれんのかい?」
「生憎専門外です。私の専門は神経科学なので」
デスクの前に立ったカレブを上目に見やる。彼は聞いていないようだった。炯炯と光る目だけがチェス盤に向けられている。
「ひとりでチェスを?」
「ここには相手がいないのでね」
「それなら俺が相手になろう」
「なに?」
「刑務所で散々やった。一度も負けたことがない」
カレブは鼻息を吐くと、デスクの端に寄り掛かって身体をひねり、チェス盤を見下ろした。
「ほら、やろうぜ、先生。ここじゃ時間は死ぬほどあるだろ?」
カレブの長い骨張った指が窮地に陥っていた黒のキングを救う。仕留め損ねたキングや残っていたナイトが最初の位置に戻った。いつも負け続けていたチェスの駒たちが急に息を吹き返したように見えた。
「お手並み拝見といこう。その前に君が座る椅子を持ってくるとしましょう」
「ほお、そりゃ助かる」
椅子から腰を上げ、早足で本棚の前を通り過ぎる。
「なァ先生」
書斎を出る前に呼び止められ、足を止めて首を巡らせる。
「俺が勝ったら、あっちにある妙な椅子の部品をくれないか?」
カレブが顎で指した方向は、研究所の中央だ。おそらく、電気椅子のことを言っているのだろう。
「私が勝ったらどうする?」
「そうだなァ、その時はアンタの言うことをひとつ、なんでも聞くとしよう」
カレブは帽子を脱いでからからと笑った。
彼が勝ったら、電気椅子のパーツを譲ってもいい。自分が勝ったら……どうしようか? 実験用に新しい機材でも作らせようか?
新しい〝友人〟に対する期待を胸に、病室にあった椅子を抱えて書斎に戻った。