僕がこれほどあなたに執着しているのは、たぶんあなたを、自分で勝手につくりあげているからだ。
――サン・テグジュペリ
霧の森の主が新たに選んだのは、自分が生きた時代よりもはるかにあとの世代の、四人の未成年者だった。年長者であるフランク・モリソンですらまだ十九歳で、自分よりもずっと若かった。
フランクにははじめに、繰り返される儀式とやり方について仔細教えてやった。
彼は主人を喜ばせる努力をした。儀式の結果を褒めてやったり、アドバイスをやれば、彼は素直に受け容れた。
フランクは若さゆえに未熟で、大胆で、不遜ではあったが、どこか憎めなかった。彼の口の利き方はそれこそ生意気ではあるが、それは裏表のない性格の表れで、自分をはじめ、誰も咎めようとはしなかった。
彼は好奇心も旺盛で、友好的で、すぐに馴染んだ。最初に箱庭の邪神を喜ばせる術を教えたからか、フランクは特に自分には好意的だった。
彼は一緒にここへ迷い込んだ年下の友人たちへの面倒見もよく、年長者らしく兄貴分として振る舞っていたが、接しているうちに、彼もまだどこかあどけなさの残る「子供」なのだと感じるようになった。愛を知らずに育ってしまった憐れむべき子供なのだ。
「あ、いたいた、エヴァン!」
今日も彼はカルガモのヒナのようにあとをついてくる。
自分よりもずっと背が高い体躯たくましいその男のことを、皆はエヴァンと呼んでいた。
エヴァンからは、ここが人の感情を糧とする邪神の箱庭であることや、邪神を喜ばせるために定期的に「儀式」を行う必要があると最初に教わった。
儀式のルールは実にシンプルだった。邪神が作り上げた庭で、邪神が選んだ人間を探し出し、恐怖に陥れ、絶望させ、追い詰めて、生贄に捧げる。
人を殺す。それだけだ。
そのために殺人犯である自分と仲間は選ばれた。いや、きっと、人を殺した時の錯雑とした感情を――リーダーとして仲間を護らねばという義務感、衝動的な殺意、年下の仲間や恋人が抱いていたであろう死への恐怖心、生への執着、憤怒、そして、死体を埋めている間も肩にのしかかっていた、どうしようもない行いをしたことへの悔恨――邪神は嗅ぎ付けたのだろう。
なにはともあれ、ここに集う新しい年上の仲間たちは、理由はなんであれ人を殺したことがある。時代や殺しの方法が違えども、唯一の共通点だ。(父親に殺されたという哀れな女と、敬虔故に身を捧げた神官は別だが)
彼らは、自分たちを蔑んだりしなかった。煙たがったりもしない。儀式に選ばれて成功した日、彼らとは血に染まった堅硬な絆で結ばれているのだと実感して、ここが自分の居場所なのだと安堵した。先輩にあたる彼らのことをすぐに好きになった。
特に、甲斐甲斐しく面倒を見てくれるエヴァンのことは好きだ。年の離れた兄のようだとも思うし、父親がいたらこんな感じなのかもしれないとも思える。
最近彼と過ごす時間が増えた。過ごすといってもなにをするわけもなく、トラバサミの手入れをする彼のそばで他愛のない話をするだけだが、エヴァンと一緒にいると心地よく、安心した。なによりも、自分を飾らなくていい。
生まれてはじめて大人に信頼感を抱いた。自分が知る大人というのは、自分勝手で、横柄で、いい加減で、自分のことを理解しようともせず否定ばかりするのに、エヴァンはそんなことはしなかった。
エヴァンと過ごすうちに、やがて信頼や尊敬とは違った別の温かい情を胸に抱くようになった。
胸の中で芽生えたこの感情につける名前を知らない。
彼に名前を呼んでもらいたい。
いつも傍にいてもらいたい。
自分だけを見てもらいたい。
彼の名前を呼びたい。
彼のことを知りたい。
彼に触れたい。
一緒にいたい。
この気持ちはいったいなんだろう?
泥濘に足を取られたように、理解が感情に追いつかない。
それでも、彼に対する情熱は確実に胸を焦がしていった。
「アンタって、手もでかいよな」
最後のトラバサミの手入れを終えた時、フランクが呟いた。
意識を手元から隣に滑らせると、フランクは自分の手の甲をまじまじと見ていた。
「比べてみねぇ?」
白い仮面がゆっくりとこちらを向く。控えめに手を挙げたあと、フランクは小首を傾げた。
ピンと伸びた彼の指は長く、広い掌は血色がいい。戯れにと、油臭くなった手を伸ばして、開いた指に位置を合わせて掌を重ねる。
彼の手は肉厚でごつごつした自分の掌よりもずっと小さく、温かく、指も細く、色も白かった。
「すげぇ、でけぇ!」
フランクは仮面の下で楽しげに笑った。
「いいなぁ、俺もアンタくらい身長もあって手もデカかったら試合も勝ちまくってたかもしんない」
「試合? 儀式のことか?」
「違う違う、バスケの試合。俺昔バスケやってたんだよ。……強いわけじゃなかったけど」
掌が離れた。フランクは肩をすくめた。
「ここにきて、たまに思うんだよ。アンタみたいにデカくて、強くて、なんでもできたらなぁって。俺、こう見えてもエヴァンのこと尊敬してんだぜ」
「俺は強いわけでも、なんでもできるわけでもない」
「いーの。アンタは俺の憧れなの」
若者はフンと鼻を鳴らした。
「なんかしけた話しちまったな。まぁこんなことアンタにしか言えねーし、アンタだから言うんだけどさ。みんなには内緒な」
「フランク……」
「じゃ、俺行くわ。そろそろ儀式に呼ばれる頃だろうし」
飄々と言って、フランクは立ち上がった。
彼を呼び止めることができないでいると、見慣れた背中は瞬く間に霧に呑まれた。
サバイバーに全員逃げられたフランクが、肩を落として戻ってきたのは、それからしばらくしてからだった。
「エヴァン、ちょっといいかしら」
気配もなくうしろから声がして振り返ると、目線よりもずっと下にサリーがいた。彼女が困っているのはすぐにわかった。困りごとがあると、彼女は頬に片手を添えて首を傾ける癖がある。
「なんだ?」
「フランクのことなんだけど」サリーは囁くように続けた。「まだ戻ってなくて」
「またフランクが行ったのか? 今日はビリーが張り切ってたからてっきりビリーが行ったのかと」
「ビリーもやる気満々だったみたいなの。でも最近儀式の成績がよくないから代わってほしいってフランクに言われて譲ったって」
「やけになってるのかもな、あいつ」
「ええ。焦っているのかもしれないわね。悩んでいるなら話してくれればいいのに。難しい年頃ね」
彼女は地面から少しだけ高く浮いた。
「あなたになら打ち明けているかと思ったけど……なにか聞いてないかしら?」
「……いや」
「そう。ああ、心配だわ」
サリーは浅く息を吐いた。すっかり母親の顔だ。
「今日はどこで儀式をやった?」
「わからない。まだ気配がするからバダム幼稚園じゃないかって、フレディが」
「わかった。俺が行って連れ帰ってきてやる」
「あら、いいの?」
「担いででも連れて帰る」
足元に立ち込めていた霧が濃くなって、辺りを呑み込んでいく。邪神の仕業だ。
「エンティティか。連れてってくれんのか? 不機嫌なわりには気が利くじゃねぇか」
サリーの姿が少しずつ霧に溶けていく。
「エヴァン、くれぐれもフランクを叱っちゃだめよ。あの子きっと落ち込んでるから」
「わかってる」
「あの子はあなたのことがほんとうに――」
献身的な彼女の慈悲にあふれた声が聞こえなくなって、冷たい空気が剥き出しの腕を撫でた。
霧が晴れると、静まり返った住宅街にぽつんと立っていた。
儀式以外でこの場所には来たことはない。
名前を呼んで、ただひたすら歩き回って捜した。返事をするのはカラスだけだった。
しかし、この地を隅々まで知り尽くし、最期まで執着した男が気配がするというのなら、まだここにいるのだろう。
「いっそフレディを連れてきた方が早かったか」
ぽつりとつぶやいて溜息を噛み殺す。
「あいつなら――あ」
そういえば、ここには地下がある。配管が張りめぐる薄暗い入り組んだ通路の奥には、フレディが寝床にしていた場所がある。
思い出した時には、踵を返していた。
ベンチの背もたれに止まっていたカラスが慌てたように飛び去った。
地下の最奥に置かれていたベッドに身体を投げ出して、低い天井を見詰め、悔しさに圧し潰されそうになりながら呼吸を繰り返す。こんな虚しい時間をまた味わうことになるなんて、思ってもみなかった。
今日も生存者たちに逃げられてしまった。
一体どんな顔をしてみんなのところに戻ればいいのだろう。連日惨憺たる結果ばかりだ。邪神も、仲間も失望しているに違いない。
やっと居場所を手に入れられたと思ったのに。結局自分はなにも掴めないのだ。
片手を天井に向けて伸ばし、弱々しく明滅を繰り返すぶら下がった剥き出しの電球に手をかざす。視界から光が欠ける。まるで自分の人生みたいに。
「あー……クソッ……」
拳を握り、腕を身体の横に振り下ろす。床に当たる前に、怒りと衝撃はマットレスに吸収された。
「俺もエヴァンみてぇに強かったらな……」
惨めで、情けなくて、どうしようもないくらい寂しい。こんな時は、笑い飛ばすよりも慰めてほしい。
誰に?
「……ッ」
慕う年上の男の背中を思い出す。
無性に彼に会いたくなった。彼はここにはいないのに。
「やっと見付けた。こんなところにいたのか」
「……は?」
静寂を打ち破った声に、弾かれたように起き上がる。ベッドの前に、瞼の裏に思い描いていた男が立っていた。
「なんでここに……」
「お前を捜しにきた。ここで不貞寝してたのか?」
「そーだよ。俺にはお似合いだろ。この暗くて汚ぇ地下がさ」
「お前にここは似合わない」エヴァンは鷹揚とベッドの淵に腰を下ろした。彼の体重を受けてマットレスが深く沈む。「お前はソファにふんぞり返ってる方が似合う。落ち込んで塞ぎこむなんてお前らしくないな」
「べ、別に落ち込んでるワケじゃねーよ! ただ、その、ちょっと考えごとしてたっつーか……俺もアンタみたいになれたらって思ってただけだ」
「俺みたいに?」
「うん。みんなから信頼されて、儀式だっていつも生存者の奴らを全員吊るして気持ちよく終わらせて、常に堂々としてて……いつだってアンタはかっこいいし、頼りになるし、俺の知らないことを知ってる。教えてくれる。俺のことをバカにしたりもしない。エヴァンはなんでもできる……俺の……憧れなんだよ」
言葉は喉の奥で数珠つなぎになって、次々と溢れ出た。エヴァンへの「憧れ」を口にすると、胸が締め付けられた。彼に対する想いは、好きなミュージシャンやスポーツ選手に対して抱いている憧憬とは違ったものであることを自覚してしまった。 胸の奥が張り裂けそうなくらい痛い。この気持ちを伝えたら、彼はどんな反応をするだろう。
「いいかフランク。前にも言ったが、俺はなんでもできるわけじゃない。尊敬されるような器でもない。まぁ、お前に頼られて悪い気はしないがな。俺を頼ってくれてるなら、落ち込んでひとりで抱え込むことはないだろう。相談くらい乗るぞ」
腕を組んだあと、エヴァンは喉の奥でくつくつと笑った。
肩から力が抜けた。薄い胸の奥で心臓が大きく跳ねる。
「エヴァン……俺さ……」
天井を巡るパイプから空気が抜ける音が漏れて、沈黙がふたりの間に滴り落ちてきた。
彼は言葉の続きを待っている。
「気が付けばアンタのことを考えちまうんだ。頭悪ぃからよくわかんねぇけど、アンタに対する気持ちは他の大人に対して思う気持ちとは違う。アンタのことを思うとどうしようもなく胸が苦しくてたまらない。エヴァンのそばにいたいって思っちまう。俺……俺さ、アンタのこと好きになっちまったみたいだ」
胸に渦巻いていた気持ちを吐き出すと、血が沸騰したかのように身体が熱くなった。
エヴァンは身動きひとつしない。仮面の隙間からわずかに見える眸はまっすぐにこちらを向いていた。視線に怯み、逃げるように顔を逸らし、仮面の下で目を瞑る。
神様なんてもう信じていない。それでも、もしも神がほんとうにいるのなら、慈悲があるのなら、どうか応えてほしい。
「それがお前の望みか」
数瞬置いて耳に届いたのは、平坦な声だった。目を見開き、弾かれたようにエヴァンを見る。
「俺はお前が思っているような人間じゃない。お前のように自分が置かれている状況を理解していても抵抗もせず、足掻くこともせずに受け容れ、ただ愚直に信じていたものにすがり、壊し、喪い、怒りに溺れるような人間だ。それでも、俺でいいのか?」
エヴァンの眸の奥で燻ぶる消えることのない憤怒に、一刹那、ありえないことに哀愁がよぎって呆気にとられる。薄い胸の奥で心臓がバウンドするバスケットボールみたいに弾んだ。
それは想いを吐露した自分に対する憐憫か、はたまた、彼自身の過去の残骸が浮上しただけなのかはわからない。それでも、見てしまったひとかけらの切なさに触れたいと思うのは傲慢だろうか。
彼は答えを待っている。
「ア……」
仮面の下で乾いた唇を舌先で舐める。
「アンタがいい」
握り締めた拳が震えていた。
「アンタじゃなきゃダメなんだ」
遠くで配管から蒸気が噴出する気の抜けた音がした。
「わかった。お前が俺を選ぶのなら、俺はお前を受け容れよう」
エヴァンは咳払いをしてから鷹揚と腰を上げた。自然と視線が上がる。
「マジで、いいの? 超あっさりじゃね?」
「お前の気持ちにうまく応えられるよう善処する」
身じろぎして、ベッドから降りて向き合う。そばに立っても、笑みを作った白い仮面を見上げる形になる。彼は背が高い。
胸に湧いた熱い気持ちを抑えきれずに、彼のウェーダーにしがみ付くようにして抱き着いた。厚い胸に額を押し当てて、広い背中に回した手に力を込める。
太い腕に抱き締められて身体が密着する。エヴァンなりの、ぎこちない抱擁だった。
「はー、なんか安心したら眠くなってきた」
「ガキじゃあるまいし……おっと、まだガキだったな」
「はぁ? ガキじゃねえって、ガキ扱いすんなよな」
「わかったわかった」
「ぜってーわかってないっしょ。アンタだから許すけど」
名前を呼んで、ぐっと身体を押し付ける。離れたくなかった。
仮面を彼の厚い胸に押し付ける。
こうして彼を感じていられるのなら、この青々しい執着心をエンティティの糧にされたっていい。
――いいや、奪えるものなら奪ってみろ。
心の中で邪神を蹴り飛ばして、生き生きとした鼓動と息遣いに身を委ねて、目を閉じた。