――これはどう足掻いても詰みだ。
角が削れた古い将棋盤上で繰り広げられる戦を覗き込みながら、破怪は腕を組み、眉間に皺を寄せて唸った。
天面に伏せる孤立した王将は、破怪に静かに敗北を告げている。
溜息を噛み殺し、対戦相手であるベンケイを上目に見やる。彼は呑気に茶を煽っている。
「……少しは手加減をしてくれないか」
ぽつりと呟くと、ベンケイはおもむろに湯呑みを将棋盤の横に置いた盆に戻し「降参か?」と口の端を持ち上げた。
破怪は組んでいた両手を解き、肩を竦めた。
「認めたくないが、お前にはどうしても勝てない」
「そうか。しかし、破怪殿は筋が良い。儂でよければ少し教えてやろうか」
「ああ、たのむ」
集中力が切れた。
破怪はおんぼろ屋敷の縁側に臨む庭に顔を向けた。
生い茂る叢の中に佇む梅の木に、雀が二羽、身を寄せ合って止まっていた。昔は梅の花が美しく咲いていたかもしれないが、今はすっかり幹が朽ち、枝先に膨らむ蕾はない。
この梅の木と同じく、長い間手入れをされずに荒れ放題となった庭は、鳥や獣の憩いの場になっていた。
二羽の雀は音もなく枝から降り立ち、ちゅんちゅんと可愛らしい声で鳴いて、日の当たる地面をつつき始めた。
差し込む日差しは二人のいる屋敷の縁側までは届かないが、春の陽気を運んでくる風が流れ込んできて、心地良かった。
「長閑だな。ここは」
「うむ。今でこそ廃屋だが、昔は豪勢な武家屋敷だったのだ。儂は昔、ここの当主から刀を譲り受けたことがあってな。確か、七百七十七本目の刀じゃった」
ベンケイは、記憶の糸を辿っているのか、彼方を見つめるように目を細め、懐かしいなと結んでからからと笑った。
「……そういえば、お前は集めた刀をどうしているんだ? その腹の中に仕舞っているのか?」
「いや——うん——そうなるのう」
剛毅な彼らしくない曖昧な態度に、破怪は首を傾げる。
「違うのか?」
「見てみるか?」
「……なに?」
破怪の胸の奥で、好奇心が鎌首を擡げた。
「儂の腹の中を、見てみるか?」
果たして、妖力で封じられた観音開きの扉の向こうに、なにがあるのか——。
厨子を象った彼の胴体をまじまじと眺めた後、破怪は、悩むことなく顎を引いた。
蝶番が軋み、耳障りな音を上げた。観音開きの扉は、外開きだった。扉の中心に描かれた円が半月のように割れ、左右の扉に付けられた飾り金具が小さく揺れた。
温い風が吹いた。
破怪は将棋盤の向こうで端座したまま、背中を丸め、頭を擡げてベンケイの腹の中を覗き込んだ。
「……なんだ、何も――」
ないではないか。
そう続けたかったが、それ以上言葉は続かず、喉の奥に落ちていった。
懇々と広がる暗闇の奥に――なにかがいた。
それがなんなのか、破怪にはわからない。獣のようにも見えるし、鬼のようにも見える。人のようにも見える。漆黒の中には、さらに濃い、しかし、うすぼんやりとした影が見える。
それは暗闇の中で息を殺し、眼だけを見開いて、じっと破怪を見ている――ように見えた。
四角く縁取られた黒い空間の中央に並んでいる目ですら、薄膜を張ったように、暗闇に紛れてはっきりとはわからぬ。
無機な視線に射抜かれて、破怪は息をすることも忘れ、魅入られたようにそれを見詰める。
不意に。
観音扉がゆっくりと闇を挟んでいった。
扉が噛み合うまで、破怪は闇を見据えていた。
「儂の腹の中は、なにが——見えた?」
破怪は襟巻きの下で渇いた唇を舐め、視線だけでベンケイを見た。
「……なにがいるんだ?」
問いかけの後、ベンケイは乾いた笑いをひとつ上げて、鋭く目を細めた。
「良いか、破怪殿。人も妖怪も、心を食い荒らす、形を持たぬ魔物を腹の中に飼っておる。魔物を飼い慣らせずに呑み込まれれば、人は人ではなくなる。よく覚えておくといい」
魔物はお主の中にもいるぞ――。
ベンケイはそう結んで、身重の女が腹の子を愛でる時のよう、扉をゆっくりと撫でた。
「……さあ、じきに日暮れだ。帰られるといい」
穏やかに細まるベンケイの双眸を一瞥して、破怪は庭へと視軸を向けた。
雀はもういない。
日が傾いて、影が縁側にも伸びていた。
破怪には、ベンケイの腹の中にあった闇が、音もなく迫っているように思えた。