プレイグとリッチ

 声が境界の先へと届かんことを。
 声が境界の先へと届かんことを……。
 声が——。
 何者かの気配を背後に察知した時、アディリスは目を見開くのと同時に祈りの言葉を紡ぐのをやめ、弾かれたように振り返った。手にした吊り香炉の鎖が大きく弧を描き、甘ったるい煙が地を這う蛇のような軌道を残す。
「誰だ」
 視線を左右に滑らせ、誰何し、薄闇を見据える。答えは返ってこないが、気配だけはあった。残響が消え、寺院の外で降り続く雨の音だけがアディリスの耳朶を打つ。
「誰だ」
 もう一度問い掛けた。アディリスを挟むように燃えていた燭台の火がすべて消えた。驚いて燭台の方を向く。風は吹いていない。
 空気が震えるような、かすかな掠れた笑い声がした。顔を正面に戻すと、誰もいなかった寺院の入口に、逆光に立つ細いシルエットが見えた。影は宙に浮いていた。音もなく階段を滑り、アディリスの方に近付いてくる。
 闇を裂き、光の欠けた寺院に現れたのは、ローブとブレストプレートを纏った骨と化した骸だった。骸には暗い光を宿した眼球があり、幅広の肋骨の間には、黄金に縁取られた赤いカバーの書物が収まっている。
 アディリスは目の前で止まった骸を見据えて唇を引き結んだ。骸は、彼は、希代の魔術師であり、別の世界を統べた神であると他の殺人鬼から聞いている。実際にこうして会ったのははじめてだが、紫色の双眸に見詰められると、胸の内側で拍動する心臓だけでなく、思案を見透かされているような気がして、言葉を選ばなくてはならないとさえ思えた。
「あなたがなぜ、ここに?」
「他の領域を見て回っている」
 アディリスは警戒心を緩めずに彼を見据え、自分の時代の言葉で言った。「あなたの興味を引くものはなにもないと思うが……」
 魔術師は小首を傾げた。「それは私自身で見極める」
 生まれた時代や国が違っても、この箱庭の主の力のおかげで意思の疎通は取れる。それは異なる世界の者同士でも同じだ。
「お前が使うのは古い言葉だな……よし……お前がどの次元の者か中ててやろう。そうだな……」
 人差し指をこめかみに当てると、彼は俯いた。
「生贄の心臓を捧げていた太陽の時代か? ……いや、祀っていたのは煙を吐く鏡や羽毛のある蛇ではないな……もっと古い時代の……ふむ……」
 アディリスは瞼の裏で、かつていた神殿の祭壇に祀られた神々の石像を思い出していた。星々の守護者。砂漠の番兵。人類の母。そして偉大なる創造主……。
「ああ……わかったぞ」
 魔術師はわずかに顔を上げ、くつくつと細い喉を震わせながらアディリスをまっすぐに見た。炯々と光る眸に底知れぬ闇があるのをアディリスは見た。
「お前はシュメールの民だろう。海の山羊の信奉者だ。どうだ?」
 吊り香炉の鎖を握る手が無意識に力んだ。鎖が小さく揺れる。立ち上る煙だけは変わらずに芳香を放っている。
「……そうだ」
「お前は信心深いと聞いた。まさかとは思うが、その海の山羊が——この箱庭の主であると?」
 アディリスは肺腑いっぱいに湿った空気を吸い込んだ。それから片手を胸に添え、魔術師から視線を逸らさずに頷いた。
「この霧と夜の森の神こそ私が敬う神で間違いない。私の声は境界の先へと届いた。故に私はここにいる。神のために、贄を捧げる」
「そうして、祈って、願って、お前の神はお前になにを与えた? 飢えた者どもにパンを与えたか? 死を振り撒く疫病を退けてくれたか? お前は一度でもその神に対して疑いを持ったことはないのか?」
「なにを——」
 アディリスはヴェールの下で顔を歪めた。跪き、神々の石像に見下ろされた日々の記憶が引き摺り出される。師であり、父のようでもあったハバン——アディリスを唆した冒涜者——の声が耳元でする。〝我が娘よ〟〝早いうちにここから逃げ出そう〟
 ハバンの声を振り払うように、アディリスは「私は神を疑ったことなど一度もない!」叫んだ。
「苦痛こそ愛だと神は仰った」
 魔術師は慈悲のない目でアディリスを見詰めている。
「苦痛か……ならばそれを私が与えてやろう。私に仕える気はないか?」
 視線がぶつかる。アディリスは、自身で鞭打った背中の古傷が痛むのを感じた。空で弱々しく明滅する星のような静寂がふたりの間にはあった。アディリスは瞼を下ろした。寺院の前に置き去りにされた日に見上げた太陽の眩しさから逃れるように。
「ない」
 アディリスがもう一度目を開けた時、強い風が寺院を吹き抜けた。
「私が信じる神はひとつだ」
 風は香煙をさらっていったが、アディリスの中にある信念は吹き飛ばされなかった。
「敬虔なことだ」魔術師はそう呟くと、アディリスから興味をなくしたように背中を向けた。「祈りの途中だろう。続けろ」
 突然魔術師の目の前の空間が、ヴェールを裂いたように縦に開いた。アディリスは目を疑ったが、瞬きの間に、彼の姿は避け目ごと消えていた。
 雨音だけが聞こえた。アディリスは辺りを見回した。消えていたはずの燭台の火がついていた。
 アディリスは欠けた自分の足の指を見下ろし、目を閉じ、そして聖典の一節を口にした。
「声が境界の先へと届かんことを」