ヒルビリーと鬼

 一部の殺人鬼を除いて、彼らは日に三度食事をする。霧と夜の森から出られないといえども、生きているのだから腹だって減る。
 あらかじめ調達係と食事当番を決め、儀式が七回終わるごとに変える——それがルールだった。
 食材の調達方法は、狩猟が主だ。意外なことに、この森にはエンティティが生み出した動物——たとえば、頭から触手が生えた気色の悪い鹿だとか、鋭い牙を持つ凶暴な兎だとか——が多くいる。血のように赤い果実を実らせる木や、魚が泳ぐ小さな池もある。存外困らない。時々、箱庭で足掻くことを諦めた生存者の死体も手に入る。エンティティから褒美としてもらった食材を持ち寄る者もいる。食事当番はそういったものを調理し、みなで焚き火を囲う。生まれた時代や国は違えども、温かい食事を摂り、酒を飲み交わせば仲間意識も芽生える。輪に加わらない者もいるが、とやかく言うものはいない。彼らは彼らなりにお互いに線引きしているのだ。
 ヒルビリーは、食事当番よりも調達係の方が好きだった。エヴァンが仕掛けた罠を見に行くのもワクワクするし、狩りが得意なアナと一緒に鹿を仕留めるのも楽しい。エンティティに、褒美に小麦粉やバターや牛乳をお願いして、サリーに美味しいミートパイを焼いてもらってみんなで分けて食べる時は嬉しくなる。
 久しぶりに調達係となったヒルビリーは張り切っていた。今回は崋山と一緒だ。チェーンソーと麻袋を携えて崋山のあとに続いて森の奥へ進み、エヴァンの罠がある場所を探した。どこに設置したかわかりやすいように、彼は罠の傍の枝に血まみれのパーティリボンを巻いてくれている。
 幹が根本から歪んで捻れた木と、枝が大きく撓んだ木の間に仕掛けられた罠にはなにもいなかったが、そこから少し離れた獣道の罠には、丸々と肥えた獣が掛かっていた。
「あれって……豚?」
 ヒルビリーは目を丸くさせて獲物を凝視した。獣は豚に見えた。だが、ヒルビリーの知っている豚というのは、鼻先が短くて、耳が大きくて、体毛が薄いものだ。
 罠に掛かっている豚は、鼻先が長く、耳はうんと小さく、茶色い毛に覆われていて、ブラシのように毛深い。それに、下顎から脳天に向けて緩やかな曲線を描いて、牙が伸びている。
「猪だ。この森にもおるのか」
「猪? 俺、はじめて見た!」
 罠には鹿や兎が掛かることが多いが、猪が掛かったのははしめてだった。丸みを帯びた巨躯は崋山の胴体くらい太い。
 人の気配に気付いた猪は、右前足をトラバサミに挟まれているのにも関わらず、被毛を逆立てて甲高い鳴き声を上げながら頭を振って湾曲した角を地面に擦り付けたり、口の端から涎を撒き散らして悶えるように暴れた。だが、傍の木に鎖で繋がれたエヴァン特製のトラバサミから逃れられるわけもない。
 しかし、ヒルビリーを圧倒させるには十分だった。猪の血走った小さな目と、荒い息遣いと、土を削り取る蹄は、かつて農場にいた獰猛な茶色い毛並みの雌牛を思い出させた。濃くていい乳を出す雌牛だったが、父親は手を焼いていて、ある日ついにショットガンで撃ち殺し、食肉用として出荷してしまった——。
「手負いの獣ほど厄介なものはない」
 瞼の裏に浮かんだ雌牛の死体は、崋山の声で掻き消えた。ヒルビリーの意識は、猪から目の前に立つ崋山の背中に向いた。
「儂が仕留めよう」
 崋山は抜き身の日本刀を提げたまま歩き出した。猪は地面を何度も蹴り、頭を低く下げて威嚇したが、崋山が歩みを止めることはない。
 崋山が猪に近付くと、猪は崋山から離れるように後退りした。
 やがて、トラバサミと木を繋ぐ鎖がぴんと張って浮いた。ヒルビリーから見れば、崋山の方が無防備だが、獣は、本能的に迫る侍を恐れている。
 ゆっくりと距離を詰めた崋山は、静かに日本刀を構えた。猪は尻を木の幹に押し付けて弱々しく鳴いた。
 吹いていた風が止んだ一刹那、暗闇の中で、崋山の刀が一閃した。ヒルビリーには、刃がどう動いたのか見えなかった。
 猪の鼻の穴から血が溢れ出て——頭がずるりと下にずれ、音もなく地面に落ちた。頭があった位置から血飛沫が噴き上がる。頭部を失った身体は傾いて、血溜まりの中にどうっと倒れた。
「えっ」
 瞬きを忘れ、ヒルビリーは崋山の背中と落ちた猪の頭を交互に見た。崋山からは殺気も感じられなかった。彼は大きく動くこともせず、最小限の動きで猪を斬った……。
「これでよい」
「どうやって斬ったの?」ヒルビリーは不自由な片足を引き摺って崋山に駆け寄った。「斬ったところ、見えなかった!」
「無論。一太刀で首を断たねばならぬ」
 崋山の刀が素早く空を薙ぎ、刃にまとわりつく血が飛び散った。
「一回で斬るってこと?」
「左様。外せば死ぬ。剣術とはそういうものだ」
 辺りに濃い血のにおいが充満する。崋山は猪の死体を見下ろした。
「ふむ……何貫あることやら……」
「袋に入らないね。俺が解体するよ」
 ヒルビリーは最初に猪の足に食い込んだトラバサミを慎重に外した。鋭い歯には血と肉片がこびり付いていた。逃れるためにもがいたのだろう、足は肉が削げて骨がのぞき、もげかけていた。
 持ってきたふたつの麻袋に入るよう、チェーンソーで猪の身体を四つに分けた。頭や内臓は捨てていくこともできたが、リサやドレッジが喜ぶから、できるかぎり持って帰ってやりたかった。
 ふたりは解体した猪の詰まった麻袋を担ぎ上げた。滲んだ血がぼとぼとと溢れたが構わなかった。
「侍って、かっこいいいね」
 ヒルビリーは、前を歩く崋山の背中を見詰めたまま胸で渦巻く熱い興奮を口にした。かっこいいなどと見栄えを軽々しく褒めたら、武家の血筋を重んじる彼の怒りに触れてしまうかもしれない——そう思いつつも、言わずにはいられなかった。
「お前は童のようだな」
 振り向いた崋山の声は穏やかだった。ヒルビリーは皮膚の引き攣った口の端を持ち上げて笑った。童というのは、古い日本の言葉で子供を意味することを、ヒルビリーはずいぶん前に崋山から教わった。
「俺も一回で殺せるように頑張る。俺のは、刀じゃなくてチェーンソーだけど」
「よい心掛けだ。鍛錬に励め」
「うん」思わず麻袋を握る手に力がこもった。
 崋山はそれ以上なにもいわなかったが、鬼の面の下で、たしかに、小さく笑っていた。