いだかれ、眠れ

 生前からの習慣で、夜の見回りは欠かせなくなっていた。
 生前は火を灯した蝋燭を片手に城内を見回ったものだが、英霊となった今は明かりがなくともよく見える。今夜も〈カルデア〉に異常はない。異常があっては困るのだが。
 異変に気付いたのは三度目の見回りの時だった。
 契約者である少女の部屋に通じる通路からすすり泣きが聞こえてきた。時刻は酉の刻を過ぎていた。
「こんな時刻にどうしたのだ、契約者よ」
 驚かせないように夜間灯の明かりの下に姿を晒す。
「キ、キングハサン?」
 薄闇から現れたのは、泣き腫らし、しゃくりあげる寝間着姿の少女だった。
「ん、ごめんなさっ……わたしっ」
「何事だ」
 手の甲で目を擦り俯く少女の姿はか弱く見えた。距離を縮めて震える肩を抱いてやると、肩の肉は薄く、夜間灯の緋色の朧な明かりに暴かれた剥き出しの首筋は華奢だった。
「サーヴァント達がみんな消えちゃう夢を見たんです」
 顔を上げた彼女の瞳は涙で濡れていた。
 

 マシュも、血腥い歴史を生きた名うての王や、時代を築き上げてきた碩学者、そして信仰のために戦ってきたハサン達も――今まで修復してきた特異点で何度も見てきたように、光と共に雲散し、消滅する――目の前で皆いなくなってしまった。
 叫びと目覚めはほぼ同時だったと思う。
 身体は汗でじっとりと濡れていた。
 ナイトテーブル上のデジタル置き時計の角ばった数字は丁度午前三時を表示していた。
 呼吸もうまくできないまま、夢だ夢だと自分に言い聞かせて、それでも怖くてたまらず、兎に角落ち着こうと部屋を出た。
 歩き慣れているといえども、サーヴァントや職員が寝静まったこの時間に一人、通路を歩くのは怖い。ましてや、あんな夢を見た後は。思い出しただけでも涙が湧いた。
 パジャマの裾をぎゅっと握って、壁伝いに歩いていて、こうして山の翁に出会った。
「すごく怖くて……夢なのに、どうしていいのかわからなくて……」
 溢れた涙が瞬きと共に頬に流れ落ちた。
「怯えるな、契約者よ」山の翁の指が伸びてきて、白い頬を伝う涙を拭った。「幻に過ぎぬ」
「うん、でも、本当に……これは夢じゃない?」
「ここは貴殿の〝城〟だ。部屋に戻るがよい。香を焚き、眠るまで我が傍にいよう」
 山の翁の深みのある声は穏やかだった。
 子供を宥めるような声音に、強張っていた肩から力が抜けた。
 ほっと溜息を零すと、背中に手を添えられた。と思ったら、膝裏に反対側の手がするりと滑り込んできて――横抱きにされた。
 わたしを軽々と抱き上げて、キングハサンは鎧の金属が掠れる音を立てることもせず、わたしの部屋へ向かった。天井の夜間灯の赤々とした明かりすら、黒き暗殺者の影を照らし出せなかった。

 部屋に着いて、山の翁は彼女を寝台下ろし、先日贈物の御返しに渡した香炉――壁際の本棚の上に置かれていた――の傍に寄った。
 香を焚くと、白煙がゆっくり立ち込めた。
 甘ったるい芳香が立ち、仮面の奥の鼻孔を掠める。
 寝台に戻ると、彼女は身体を起こしたまま、なにか言いたげにじっとこちらを見詰めていた。
「ワガママを言ってもいいですか?」
「貴殿の頼み事であれば聞こう」
「ベッドじゃなくて、さっきみたいに……キングハサンに抱かれて眠りたくて……」
「そうか。構わぬ。来るがよい」
 彼女は頬を綻ばせ、四つん這いで寄ってきた。彼女が膝に乗ると、寝台の端が無機な音を上げ軋んだ。
 胸に寄りかかる彼女の身体に毛布を掛けてやると、彼女は軽く鼻息を吐いて、目を閉じた。上向きの睫毛が長い。
「おやすみなさい、キングハサン」
「よく眠れ。睡眠は疲労を癒すに不可欠だ」
 香の馥郁とした香りの中で少女を腕に抱くと、彼女は蕩けたような、安心感に溢れた微笑みを浮かべて、手を握り締めてきた。
 微睡みは煙のように立ち込め、纏わり付き、ゆっくりと夜が更けるように、少女を眠りの淵へと誘った。