Libido

「読むことくらいはできるかと思ったんだが、俺には発音が難しい」
 綴られた呪文を唱えることを諦め、魔導書を閉じて本棚に戻し、棚の裏側にいるヴェクナに向けて呼びかけた。
「魔法は、どんなことでもできるんだったな」
「発動させるためには魔力が必要だが、万物が流転するのと同じく、魔法はあらゆる力を秘めている」
 近付くと、ヴェクナは書物を閉じて元のスペースに戻し、顔を巡らせた。クロース・ヘルムの視孔越しに目が合った。
「魔法といっても、千差万別だ。肉体から魂を引き剥がすものから、こういうくだらないものまである」
 ヴェクナは聞き取れない言語で何か呟いた。
 瞬きひとつの間に、彼の纏っていた黄金でできた精緻な金線細工の鎧が、別の衣装に変わった。頭を一巡する髑髏を模した荘厳な黄金の王冠に、いくつもの髑髏を下げた豪奢な鎧。そして、豊かな銀髪——。
「驚いたな」なにが起きたのかわからなかった。「その鎧は?」
「かつて浮遊する大都市を陥落させた時に纏っていたものだ」ヴェクナは肋骨の間にしまいこんだ赤と銀の書物の表紙を撫でて言った。「……懐かしい」
 艶やかな銀髪をまじまじと眺めたあと、視軸を下肢まで下ろして止めた。腰周りに吊り下げられたたくさんの髑髏よりも、深紅と藍色の布が重なった長い腰布の方が気になった。腰布といっても両足がすべて覆われているわけではなく、正面は前垂れになっていて、布と布の間から太腿の半ばから爪先まで剥き出しになっていた。鎧は身を守るために身に着けるのだから露出は好ましくないが、稀代の魔術師には鉄壁の防御は必要ないらしい。
「…………」
 布地の間から覗くヴェクナの薄い肉のついた大腿骨を見詰め、昨夜の情事を思い出して、思わず喉が鳴った。
――あの細い太腿を掴んで、夢中で腰を揺さぶって、快楽の沸点に達した……。
「なにを考えているのかててやろうか?」
 ヴェクナは掠れた声で笑った。思わず苦笑いした。「言わなくていい」
 いつものように腰のうしろから抱き寄せて距離を詰めた。兜と王冠が引き合って視線が絡まると、間で情欲の火が灯った。
「ヴェクナ」浅く息を吸った。こうしている間も、全身を巡る血潮が熱くなる。「お前を抱きたい」
 瞼を半分下ろし、ヴェクナは口端をわずかに持ち上げた。欲求が受容された証だった。
「魔法は、こういうこともできる」
 ヴェクナは片手を頭の横まで上げると、立てた人差し指で虚空を弾いた。
 一刹那、本棚の横にあるテーブルにあった魔術道具、天秤、液体の入った瓶などがいっせいに勢いよく滑り、宙に浮き、緩やかに下降して、最初からそこにあったかのように床に並んだ。
 呆気に取られていると、ヴェクナはまた小さく笑った。
「まだ終わりではない」
 言い終わる前に、鎧を含めば百キログラム以上ある身体が、机の上にあった物と同様に宙に浮いた。見えないなにかに軽々と持ち上げられているようだった。
 視界が反転し、金色の魔法陣が浮かび上がった紫色の天井が飛び込んできた。
「っ、う、お……!」
 手足は自由に動く。咄嗟になにかを掴もうとしたが、手は虚空を掠めただけだった。身体は床から大きく離れた状態で空いたテーブルの上まで移動した。天井がゆっくりと遠くなり、背中がテーブルについてようやく息を吸えた。
 テーブルに横たわったまま、頭をもたげ、折り曲げた足の間から先程までいた本棚の方を見た。不敵な笑みを浮かべたヴェクナが、音もなく近付いてきた。
 両足を伸ばすよう命じられた。従うと、テーブルよりも高く浮上したヴェクナが太腿に跨った。弛んだ腰布が卓上に広がる。普段宙に浮いているヴェクナの重みを感じ、唾を飲み込む。
「動くな」
 甲冑の前垂れを捲り上げると、ヴェクナは草摺タセットの間に指を潜り込ませ、粗織の下着ごとブレーを下ろしてきた。まろび出た萎えたままの性器を、長い指と薄い掌が摩る。自在に動く手によって、性器はすぐに硬さを帯びていき、どっぷりと先走りを溢れさせて天井を向いた。指の腹が、根本から浮かんだ太い血管をなぞる。
「……っ」
 微弱な痺れが内臓に響き、頭が仰け反る。ヴェクナは聞き取れないほどの声で笑うと、気怠そうに腰を持ち上げ、勃ち上がった男の本能を押し潰すように股座に乗り上げた。結合した恥骨の窪みが、張り詰めた亀頭の真下の括れに引っかかった。
「この姿で慰めてやるのだ。光栄に思え」
 腹に手を突くと、浅く腰を前後させ、密着した股座同士を擦り合わせはじめた。腰がくねる度に、黄ばんだ髑髏たちがぶつかって軋むように鳴った。
「さすがに、邪魔だな」
 触れていないのに、腰回りの戦利品が外れ、宙に浮いた。ヴェクナが鬱陶しいとでもいうように手を振ると、髑髏たちは床に移動した。
「これでいい。続きといこう」
 身軽になったヴェクナは、こちらを見下ろして再び動きはじめた。ほどよい重みと淫らな摩擦は性的興奮を駆り立てた。噛み締めた歯の間から、呻き声ともつかない声が漏れる。
「いい眺めだ」
 目を細め、薄い唇の間から熱っぽく笑声を溢し、緩急をつけて、先走りを垂れ流す先端から、血管を浮かせる根本にかけてを何度も往復した。
 時々動き止めたかと思うと、硬く熱くなった陽根をさらに圧迫するように腰を押し付けて小さく左右に捻った。粘液でぬらぬらと濡れた恥骨の下で、男の本能は悦びで質量を増した。
 灼熱に炙られて溶けた快楽が、腹の底で溜まりを作る劣情とぐちゃぐちゃに混ざり合って渦を巻く。身体が熱い。気持ちがいい……淫らな夢心地は、熱い吐息となって唇の間から漏れた。
——ヴェクナの腰を掴んで突き上げたい。
 抑え難いほどの衝動が理性を揺さぶったが、動くなと命じられている。破れば、二度と抱かせてくれないだろう。
「ああ……お前のその余裕のない姿、そそるぞ」
 ヴェクナは上半身を倒し、覆い被さってきた。重力に従って王冠から銀髪が零れ、兜がなければ鼻先が触れそうな距離になった。かつりと鈍い音を立てて鎧と鎧が重なり、ふたりの間で官能が押し潰される。
 息を乱し、たまらず彼の尻の辺りに手を回した。ヴェクナはなにも言わない。上と下で見詰め合っているこの一刹那も、細い腰だけが小刻みに動いている。肉と肉が擦れて淫猥な音が弾み、乱れた息と混ざり合う。
 人と神との交わり……まるで神話だ。これほどまでに背徳的なことがあるだろうか。
――神を抱いたのは、俺だけだろう。
 忍び笑いを零し、身震いして、「射精そうだ」息も絶え絶えに言って、ヴェクナの背骨を掻き抱いた。
「イかせてくれ」
「いいぞ」
 掌の真ん中で亀頭を包み込まれ、扱かれる。手に負えない射精感が込み上げて、全身が強張った。頭の中が真っ白になり、息が喉の奥に詰まり――筋肉に包まれた恥骨の柔らかさを感じながら——爆発した。
「っ、う、ぐっ……」
 反射的に下半身が跳ね上がった。すべての雄が雌にそうするように、夢中で腰を何度も揺すってヴェクナに子種を塗りつけた。男と男が交わったところで生まれるものなどなにもないのに。
 法悦に達した男根が恥骨の下で脈打ち、生温い精液を間歇的に溢れさせているのを感じた。
 事後の、重たくも心地いい倦怠感がのしかかったが、一度射精しただけではスタミナは尽きない。
「へばるなよ、タルホーシュ」
 ヴェクナはこちらを見下ろしてほくそ笑んだ。
 どうやら、まとわりつく淫らな倦怠感だけは、魔法で振りはらおうとは思わないようだ。
「お前こそ、へばるなよ」
 細い腰に手を回し、大きく息を吐いた。
 情事の熱は、まだ引かない。