※紅蓮編完結直後の話。後日譚には至っていません。
あの時たしかに目が合っていた。
ゼノスの最期の言葉も、熱のこもった眼差しも、噴き上げた血の色も忘れられそうにない。
夜、ベッドの中で、眠るために目を閉じても、瞼の裏にゼノスの顔が浮かぶ。飢えた獣のような男は、私の心に深い爪痕を残していった。あの男のことを考えれば考えるほどに、私の中の美しい思い出がずたずたに引き裂かれてしまいそうで怖かった。
誰にも言えないままあまり眠れぬ夜が続いた。
フレイなら、きっと「また君は一人で抱え込んでいるのですね」と言い、ミストは「また、よくないもの、ためてる」と言うに違いない。いっそ彼らが現れてくれればよかった。そうしたら、この心の中の澱も、暗黒騎士としての力に変えることができるのに。
ナイトテーブルのランプに燈を灯したまま、体温が沁みたシーツの上で何度目かの寝返りを打って仰向けになり、目を閉じる。
覚醒していた意識が眠りの境界線に達した時、ドアの蝶番が軋む音がして、意識は覚醒の方へ弾かれた。
締めたはずのドアがわずかに開いていた。ドアは耳障りな音を立てながら独りでにゆっくりと開いていく。
「……誰?」
身体を起こして入口を凝視して誰何したが、答えはなかった。四角く切り取られた闇だけがあった。沈黙は吹き付けた風が窓ガラスをかたかたと鳴らすまで続いた。
立て付けが悪くて開いたんだ——。
そう自分に言い聞かせてベッドを出て、ドアを閉めて、あくびをしてまたベッドに潜り、すっかり重たくなった瞼を下ろす。仄燈の中で意識が再び溶けはじめ——足元で、何かの重さを受け止めた板敷が悲鳴のような音を立てた。
目を開けて咄嗟に音のした方へ視線を向ける。
足元に、ゼノスが立っていた。
驚きのあまり、肺に取り込む途中の空気が喉に詰まった。ベッドを飛び出そうとしたのに、身体が動かない。
「会いたかったぞ、友よ」
ゼノスはほくそ笑むと、甲冑を鳴らしてベッドの横に鷹揚と回り込んだ。彼が傍に寄ると、ナイトテーブルのランプが突然激しく明滅して燈が消えたが、部屋が完全な夜の闇に覆われることはなかった。ゼノスの背後の窓から、頼りない真っ白な月明かりが差していた。逆光に立つゼノスの巨躯は翳り、ただのシルエットになる。それでも、歪んだ親しみのこもった視線だけが私に降り注いでいるのがわかった。
「どう、して」
絞り出した声は震えていた。喉を反らして喘ぐ。身体が見えない鎖に縛られているようだった。かろうじてブランケットの中にある腕だけがぎこちなく動いたが、両手を顔の横まで上げるだけで精一杯だった。
「俺のことを忘れられないのだろう?」
消えていたランプが灯る。上と下で視線がぶつかった。ゼノスの顔が近付いてきて、思わず目を閉じで顔を逸らす。ベッドが揺れて、硬いマットレスが身体の横で沈む感覚がした。
微風が生じて、ブランケットから突き出した両手に冷たく硬い籠手が被さり、ゼノスの五指が指の間で折り曲がって、掌をシーツに縫い付けられた。
「……っ!」
大きな男の影が私を飲み込み、夜の闇へ引き摺り込んだ。
「俺を見ろ」
顔の真上で低い声がした。嫌なはずなのに、目を開けてしまう。身体を乗り上げて私に覆い被さったゼノスの端正な顔がすぐ傍にあった。重力によって垂れ下がった長い髪の先が頬を掠める。たっぷりとした金色の檻の中に、私は閉じ込められていた。
「俺の、最初で最後の友……」
ゼノスは恍惚しているように見えた。両手を強く握られ、鈍い痛みが指先に広がる。片腕一本分ほどあった距離が、徐々に狭まってきた。
「友達同士じゃ、こんなことしないでしょう」
キスをされるのかもしれない——そう思って思わず口走ると、ゼノスは喉を震わせて笑った。「それならば、それ以上の関係になれば良い」
顎を硬くさせ、唇を硬く引き結んで、視線を窓の方に向ける。不意に触れ合いそうになった鼻先がずれて、ゼノスの鼻はそのまま肩口に埋れた。
熱い吐息を頚動脈に感じて、視軸を天井に滑らせる。歯が首の付け根にじわじわと食い込んでいく。薄い首の肉を食いちぎられてしまうのではないかという恐れが鼓動を速くさせた。
「……痛っ、はな、してっ」
噛み締めた歯の隙間から鋭い息が漏れた。ゼノスは呆気なく離れると、馳走を前にした獣のように目をぎらつかせ、舌舐めずりをした。
「覚えておくといい。お前の身も心も俺のものだ。有象無象に髪の毛一本もくれてやるつもりはない」
「……最低……」
鼓動に合わせて、強く噛まれた場所が疼くように痛んだ。夢なら早く覚めてほしい。幽霊ならさっさと消えてほしかった。
「お前は俺と同じだ。それをゆめゆめ忘れてくれるな」
満足そうに薄く笑って、ゼノスは丸めていた背中を起こした。髪の間からまだらに差し込んでいたランプの光が私たちを縁取る。壁に張り付いた二つの影は、巨大な獣のようだった。
ランプの燈が弱々しくなって、窓の外から部屋に入っていた月光が途絶え、室内は暗闇に包まれた。
組み合わさっていた指がするりとほどけて、ゼノスの体重を受けて沈んでいたマットレスが元に戻る感覚を背中で感じた。音も、気配もない。渾々とした夜の闇の中で、私の息遣いだけがした。
ジジジ、と不安定な音を立ててランプの燈がついた。淡いオレンジ色に照らし出された部屋には、誰もいなかった。最初からそうであったように、眠気を連れてくる静けさだけがあった。
その夜は夢も見ず、朝まで眠った。
翌朝、鏡を見ると、左側の首の付け根にくっきりと歯形がついていた。
「……最低……」
昨晩のように呟いて、溜息をついて歯形に触れる。聞こえるはずのないゼノスの小さな笑い声がした気がした。