恋の煙

 
 恋は決闘です。もし右を見、左を見、していたんでは負けです。
 ――ロマン・ロラン

 ノウム・カルデアに召喚されたテスカトリポカに最初に抱いたのは、一緒に戦ってほしいという、マスターとして当然の思いだった。
 テスカトリポカは親しみを持って接してくれるし、わたしの意思を尊重してくれる。忠告してくれることだってあった。褒めてくれることだってあった。バレンタインデーには贈り物も受け取ってくれた。魅力的なお返しもくれた。
 彼と共に戦ううちに、信頼が芽生えた。彼は臆せず戦えと鼓舞する。闘争はわたしの心臓を熱く速く脈打たせ、テスカトリポカを悦ばせた。闘争が私たちを繋いだのだ。
――オレは戦う者を優遇する。それを忘れてくれるなよ。
――いい目をしている。戦士の目だ。
――よくやったな、お嬢。
――弱くとも、道はあるさ。
 テスカトリポカに戯れに頭を撫でられると満たされた。テスカトリポカが隣にいてくれることが嬉しかった。もっとテスカトリポカのことを知りたいと思った。彼もまた、わたしに興味を抱いてくれているようだった。
 汎人類史に伝わるメシーカ人の人身供儀という宗教的伝統はもちろん、テスカトリポカの神性や、好みといったことを少しずつ知った。コミュニケーションを重ね、テスカトリポカを知り、理解し、同じ時間を過ごすうちに、他のサーヴァントには抱いたことのない切望が胸に湧いた。
 わたしの名前を呼んでほしい。わたしを見ていてほしい。そばにいてほしい。触れてほしい――つまるところ、わたしは恋に落ちたのだ。
 神に対する恋心は、トキめきを感じるというよりかは、胸の奥に灯った火がじわじわと全身に広がっていくような情熱的なものだった。焦がれるとは、きっとこういうことなのだろう。胸に宿る恋慕は、煙のようにゆらゆらと立ち昇る。サーヴァントに、ましてや、神に恋心を抱いてはいけない――強く気持ちを抑えるほどに、煙は濃く長くたなびいた。恋焦がれることがこんなにも苦しいなんて知らなかった。
 テスカトリポカに見詰められると、気持ちを吐露してしまいそうになった。
 わたしは神に近付きすぎた。
 できる限り距離を置こうと、少しずつテスカトリポカをさけるようになっていた。

 部屋に戻ると、ベッドにテスカトリポカが腰掛けていた。
 部屋には山の翁がいたはずだが、黒衣の暗殺者の姿はなかった。
「どうして、ここに?」
 小さな声を絞り出して後退りをするが、背後でドアが閉まって、逃げられなくなった。
「おまえと話がしたくてな。ああ、翁さんなら気配を遮断しているわけじゃあないぜ。部屋から出てもらった」
 テスカトリポカは腰を上げると、鷹揚と近付いてきて、目の前で足を止めた。影が被さり、顔の横に勢いよく拳が叩き付けられる。鈍い音と衝撃に身体が強張って、足が竦んだ。
「何故オレをさける?」
 一番されたくない質問が降り注いで、目を伏せ、奥歯を噛み締めて顎を固くさせる。
「目を逸らすな」
 顎の先を掴まれ、持ち上げられた。否が応でもテスカトリポカを見据えることになり、胸の奥が熱くなる。
 だめ。わたしを見ないで。わたしはあなたのことが――。
「もう一度訊く。何故オレをさける?」
 サングラスのレンズ越しに向けられる眸には、怒りの煙が渦巻いていた。それもそうだろう。ここ二週間ほど、まともに会話すらしていないのだ。
「ごめんなさい……わたし……」観念して、浅く息を吸う。目に涙が湧いた。もう堪えることはできそうになかった。「…………なの」
「なに?」
「好きなのっ!」垂らしていた拳に力を込めて、感情的に吐き出す。胸に充満していた煙が噴き出して、甘い芳香を放った。「テスカトリポカのことが、好きなの……」
 吐き出した声は、震えて、頼りないものへと変わった。だから、と続けるも、言葉がすぐに出てこない。目尻から涙が零れた。
「だから、避けてました。神様を好きになっちゃいけないことくらい、わかってるから」
 テスカトリポカの手が顎から離れた。涙でぼやけて彼の表情はわからないが、「神に想いを寄せるな」と叱責されるに決まっている。
「てっきり、嫌われているものだと思ったが……そうか……」唸って、テスカトリポカは頭を掻いた。「立香」
「……はい」
「目を逸らすな」
 神は静かに言った。サングラスの褐色のレンズの奥で瞬く眸からは、怒りが消えていた。
「畏怖や敬意ならともかく、ヒトからの恋慕は嘲笑してしかるべきものだろうが、オレはおまえの想いを拒絶しようとは思わない。言っただろう。捧げものには慣れていると。オレを慕い、恋焦がれるのならば、その身のすべてをオレに捧げ、煙塵に身を投じろ。決して逃げるな。戦う覚悟を決めろ」
 テスカトリポカの低く滑らかな声は聴覚器官を揺さぶった。答えを待つように涼しげな切れ長の目が細まる。
 ああそうだ、目を逸らしたらいけない。目を逸らしたら敗けてしまう。戦いとはそういうものだ。恋だって、きっとそうに違いない。
 袖口で潤む目を荒く擦って、テスカトリポカを見据える。
「わたし、もう、目を逸らしません」
「誓うか?」
「誓います」
「オレにすべてを捧げるか?」
「うん。テスカトリポカになら、わたしの全部をあげてもいい。それに、これからも戦い続けることは変わらないよ」
 テスカトリポカの薄い唇の端が持ち上がる。
「いいな。とてもいい。おまえが一途にオレを想うのなら、おまえ以外とは関係は持たない。おまえのすべてをもらおう。まずは、そうだな……」
距離が詰まって、テスカトリポカが頭を傾けた。反射的に目をきゅっと瞑る。唇に柔らかいものが押し当てられる。優しいキスだった。テスカトリポカの首のうしろに腕を引っ掛けて抱き寄せる。背中にドアがあたった。
 啄むようなキスのあと、鼻先で熱っぽい吐息が弾んだ。
「おまえが恋の煙を纏っていたとはな。おまえの煙は甘い香りがする。コーパルの香のようだ」
 金色の髪が揺れて、唇が引き合った。溶け合うような口付けは甘美だった。
「……好き」
 ぽつりと呟いて、腕に力を込める。
 離したくない。離れたくない。
 胸の奥で、心臓が規則的に拍動している。きっとこの鼓動も、情熱も親愛も、テスカトリポカに伝わっているに違いない。
 わたしのすべてを、あなたに捧げよう。

 恋の煙…こいのけぶり
 恋いこがれる心を、煙が立ちのぼるようすにたとえていう語。
 引用:goo辞書