お手をどうぞ

 光の戦士の元にエドモン・ド・フォルタン卿から封書が届いたのは、雨の降る朝のことだった。『石の家』で朝食を済ませたばかりの光の戦士は、食後の紅茶に手を付ける前に封を切り、羊皮紙に綴られたフォルタン卿の端正な文字を目で追った。
 三日後の夜に、イシュガルドで竜詩戦争終結祝賀会が行われるらしい。そこへ、ぜひとも暁の代表者として、アルフィノと、イシュガルドの英雄である光の戦士に来てほしいという招待の手紙だった。手紙には、祝賀会といっても貴族の社交場であることと、ふたりの礼服はすでに用意してあること、そして、招待状を同封してあることが綴られていた。
 同封されていた招待状には、フォルタン家の家紋である一角獣の印が押されていた。
「社交場かあ……」
 光の戦士は苦笑いする。貴族の社交場など行ったことがない。淑女としての振る舞い方もわからないが、フォルタン卿の厚意を無下にはできない。
 光の戦士は瞼の裏に浮かぶ皇都の雪景色を懐かしみながら、少し冷めた紅茶を飲んだ。

 アルフィノに用意された礼服は、寸法もしていないのにぴったりだった。正確にはフロックコートがほんの少し大きくて袖が長いが、なんら問題はない。それよりも、共に招かれている光の戦士のことの方が気がかりだった。フォルタン邸の女中たちに囲まれてあれよあれよとどこかへ連れていかれてからだいぶ経つ。
 フォルタン家の代表として祝賀会に向かう現当主であるアルトアレールと、その弟であり『キャンプ・ドラゴンヘッド』の指揮官となったエマネランと紅茶を飲みながら談話をしている今この間も、アルフィノは彼女が消えたドアへ視線をやってしまう。
「そろそろ来るんじゃないか?」
 ソファの背凭れに腕を載せ、エマネランがアルフィノと同じくドアを見る。それに倣うようにアルトアレールも首を巡らせ、三人の視線がドアに集中する。
 一拍置いて、ドアが開いた。現れたのは、深紅のドレスに身を包んだ光の戦士だった。いつも肩に垂れている長い髪が後頭部できっちりと結われ、化粧も丁寧に施されていた。露出した首元から胸元には真っ白な鱗に映えるシンプルな首飾りがあり、頭の先からつま先までのシルエットはあでやかな完璧な女性のものだった。今の彼女には、日々戦いに身を投じる勇ましい戦士の面影はない。見惚れてしまうほど麗しい女性だ。
「美しいな」
 アルトアレールがぽつりと呟く。それは彼女には聞こえないようだったが、アルフィノには聞こえていた。
 四人は祝賀会が開かれる会場に向かうため、フォルタン邸を出た。彼女の香水の馥郁とした香りが、イシュガルドの澄んだ夜気に溶けていった。

 アイメリクは貴族院初代議長としてではなく、ボーレル子爵として会場に足を踏み入れたが、祝賀会のために用意したスピーチ原稿は貴族院初代議長としてのものだったから、周りからは「議長殿」と声を掛けられることが多かった。貴族院に属する貴族たちはもちろん、四大貴族の当主をはじめ、様々な家の当主たちへ挨拶をしているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
 一息ついて、賑々しい中、比較的人の少ないテーブルの端で、弦楽器による優雅な演奏を聴きながら赤ワインを飲んだ。そこでようやく、アイメリクは自分が喉が渇いていたことに気付いた。
 喉を潤しながら会場を眺め、アイメリクはふっと吐息をつく。こういう時、誰かと話がしたくなる。しかし、今日はひとりだ。見知った顔はいくつもあるが、気兼ねなく話ができる相手ではない。
 そういえば、彼女も来ているのだろうか——?
 飲みかけのグラスを手に辺りを見回す。一際人が多いテーブルがあった。傍に寄ると、ひとりの麗人が紳士たちに囲まれていた。
「英雄殿、このあとぜひ私と踊ってください」
「いいえ、私と踊りましょう」
「英雄殿は吾輩と踊るのです」
 熱烈な誘いを受けていたのは、アイメリクが捜していた彼女だった。微笑んではいるが、ひどく困っているのは一目瞭然だ。
 アイメリクは自身の眉が寄っていることにも構わず、グラスを通り掛かった給仕のトレイに載せ、咳ばらいをして、彼女の名前を呼んで、群れる男たちの間を割った。
「アイメリク……!」
 彼女の表情が明るくなる。それを見て、アイメリクの険しい表情がほどける。
「やはり来ていたのだな。会えて光栄に思う」
 アイメリクは、紳士が淑女にするように、彼女の手を取り、長身を屈めて鱗に覆われた手の甲に口付けを落とした。周りの男たちが嘆息する気配を背中で感じた。それだけで、彼女がまだ誰からも紳士から淑女へ与える親愛を受け取っていないことを理解した。
「……会いたかった」
 柔らかい手を包み込んで、彼女の方へ顔を向けて、アイメリクは囁いた。
「私も、会いたかった」
 光の戦士の言葉は、アイメリクの胸を熱くさせた。
 会場で流れていた音楽が変わって、周りにいた男女が番のように身を寄せ合った。舞踏会。祝賀会の催しのひとつだ。アイメリクも彼女も、誰かと踊らなければならない。
「私と踊ってくれないか」
 アイメリクは真っ直ぐに彼女を見据えて言った。彼女は瞬きをした。それから柔和に微笑んだ。「喜んで」
 彼女の手を引き、向かい合って、細い腰に手を添える。上を下で見詰め合っていると、彼女は小さく笑った。
「とはいえ、こんな風に男の人と踊ったことなんてないよ」
「私がリードする。安心してほしい」
 規則的なステップを踏み、彼女を支えてターン……最初は強張っていた彼女の表情も、だんだんとリラックスしたものになっていった。彼女の笑顔を見詰め、アイメリクも微笑む。彼女に対する秘めた想いが、重なった手や、絡まった視線から伝わってしまいそうだった。
 それでもいい。むしろ、このまま時間が止まってしまえばいい——。
 アイメリクは彼女の名前を紡いだ。天井のシャンデリアの燈を吸った眸には、アイメリクだけが映っている。彼女は言葉の続きを待っている。
 愛しているとは言えなくて、アイメリクはもう一度彼女の名前を呼んだ。胸の中で、蒼い親愛の炎が燃えている。