噂のふたり

※オルシュファンは出てきません

 英雄を見詰めるオルシュファンの視線が熱烈なものであるのと同じく、オルシュファンの背中を見送る英雄の眼差しもまた親しみ以上の熱がこめられている。
 高潔なる騎士と美しい英雄。もしかしたらふたりは、いわゆる男女の仲ではないかというまことしやかな噂が皇都の貴族たちの間を駆け巡っている。最も熱を上げたのは、恋愛小説を好む貴婦人や令嬢だった。甘い噂は瞬く間に広がり、今や平民たちの間でも話題になっていた。もちろん、噂好きのエマネランの耳にもとっくに届いていた。噂を知らないのはおそらく教皇くらいだろう。あとは、当の本人たち。
 エマネランは、オノロワが淹れた紅茶を美味そうに飲んでいる英雄を見据え「そういえば、オマエは知らないだろうが」身じろぎしてソファに座り直した。
「皇都じゃすっかり噂になってるぜ。〈銀剣のオルシュファン〉と異邦人である英雄は想い合った男女の仲だ、って」
「えっ」
 英雄はティーカップをソーサラーに戻す途中で石化したように固まり、エマネランを凝視して瞬きを繰り返した。エマネランは相棒の不意を突けたのがおかしくて、からからと笑って、ミルクを注いだばかりの紅茶を一口飲んだ。
「とはいえ、所詮は噂好きどもが立てた憶測だからな。気にすることはないと思うぜ。そういう仲じゃないって、オレはちゃんとわかって――」
 ティーカップの中の乳白色の溜まりから視線を上げたエマネランの言葉は最後まで続かず、吐息になった。
 テーブルを挟んだ向かいで、英雄は唇を引き結んで、視線を左に逸らして顔を真っ赤にさせていた。
「……え?」
 見たことのない表情に、エマネランは呆気に取られた。彼女の揃えられた膝に載った拳が小さく震えているのを見て、エマネランは瞬きを忘れ、横に控えているオノロワに顔を向けた。あどけなさの残る従者の顔には、険しさがあった。
 引き攣った頬でなんとか笑みを作って、エマネランは首を巡らせて正面に顔を戻す。英雄の目は熱っぽく潤んでいた。
「あなただから言うけど」暖炉に向いていた彼女の眸がエマネランに向いた。「少しだけ、合ってる」
 それはほどんど囁きに近かった。言葉の意味を理解するのに時間が掛かった。「少しだけ」とは、どこのことだろう。「想い合っている」だろうか。はたまた、「男女の仲」の部分だろうか。
 どちらにせよ、凛々しき英雄はエマネランの前で乙女の顔をしている。彼女は恋をしている。オルシュファンに。
 暖炉の中で薪が弾けるぱちりという音で、エマネランの思考はようやくクリアになった。
「……まじかよ。その……いつからなんだ?」
 英雄はなにも言わなかった。代わりに曖昧に微笑んだ。相変わらず頬は紅潮している。
「絶対に、内緒にしてね」
 人差し指を口元に添えて釘を刺すと、彼女はティーカップを口元に運んだ。エマネランもまた彼女に倣って温かい紅茶を飲もうとティーカップを持ち上げた。
「安心しろって。マブダチであるオマエの秘密を誰かに喋るなんてことはしないさ」
 エマネランの言葉に、英雄は安堵したように柔和に微笑んだ。
 昔、秘密を持つ女というのは美しいと誰かが言っていたのを思い出した。それが誰だったか、どこで聞いたのかもエマネランは思い出せないが、目の前にいる女が女神のように見えた。この唯一無二の美しさを独占できるのは異母兄弟であるオルシュファンだけなのだろう。
「恋って、いいよなあ」
 ふーっと長い息を吐いて、エマネランは背凭れに背中を預けた。傍らで、暖炉の火が勢いよく燃えている。それはまるでオルシュファンと英雄の間にある親愛のように熱く、情熱的で、鮮やかだった。