蠍と蛙

「やっぱり、今夜も眠れないかも」
 二杯目のココアを啜って、熱っぽい吐息を漏らしてから立香は言った。誰もいない真夜中の食堂では、囁くような声量でも十分聞こえた。
「眠くなるまで喋っていればいい。いくらでも付き合ってやるよ」
 言い終わる前に、テスカトリポカは手元のマグカップを口元に引き寄せた。コーヒーはもう冷めきっていたから、立香のように息を吹きかける必要はなかった。濃い苦みが舌の上に残ったが、構わずにもう一口飲む。
「ありがとう」
 微小特異点での調査から戻って間もないマスターの微笑みには、少し疲れが混じっていた。
 立香と数騎のサーヴァントたちの活躍により、汎人類史に影響を及ぼす歪みは消え、微小特異点を生み出した聖杯も回収した――つまり問題は解決したが、別の問題が生まれてしまった。それが立香の不眠の原因だった。
 今回の微小特異点で、立香が様々な悪人に出会ったという記録をテスカトリポカは読んでいた。
 人の命をなんとも思っていない人殺し。奪うことでしか生きられない盗人。弱者に暴力を振るう姦人……誰もかれもが畜生以下の人間だったが、立香は愚直にも彼らに良心が残っていることを信じていた。
 もちろん性根の腐った悪党に良心など一握もありはしない。それを立香にはどうしても理解できないのだ。否、理解したくないのだ。彼らには、人に備わっているはずの良心、すなわち善性――情であれ、慈悲であれ、信念であれ、秩序であれ――が存在しなかったことを。
「わたしは、人には善性が存在するものだと思っています。だけど、どうしても考えてしまうんです。あの人たちには善良な心はなかったのかなって。本当に自責の念もなくあんなひどいことばかりしていたのかなって」
 俯く立香を見据え、テスカトリポカは鼻息をつく。

(さが)ってのはな、抑えられないんだよ」

 マグカップを両手で包み込んだまま、立香は言葉に引っ張られるようにしてゆっくりと顔を上げた。マグカップからは、細く薄い湯気が立ち昇っている。
「こんな話がある」
 テスカトリポカは椅子の背凭れに背中を預けた。
「川を渡りたい蠍が蛙に『向こう岸まで背中に乗せて連れていってくれ』と頼む。刺されることを恐れて蛙が躊躇していると、蠍は『刺さないと約束する』と誓い、安心した蛙は蠍を背に乗せて泳ぎ出す。しかし、川の半ばに差し掛かった時、蠍は蛙を刺しちまう。蛙は蠍にこう訊ねる。『このままでは二匹とも死ぬのに、どうして刺したのか』ってな。すると蠍はこう答えた。『どうしようもない。自分は蠍だから』とね。オマエが特異点で出会ったのは、この蠍だ」
 薄く開かれた立香の唇の隙間から小さく息が漏れる。
「オマエは人なら誰しも善性が備わっているものだと思っているようだが、オレはそうは思っちゃいない。善人もいれば、根っからの悪党もいる。人類の歴史ってのはそんなヤツらによって創られてきた。オマエはそれを散々見てきただろう?」
「……うん」
「ああ、オマエのことだ。そもそも善悪の線引きも複雑だと思っているだろうな。オレからすればそう複雑な話じゃあない。戦争を吹っ掛ける者たちが自分たちこそ正義だと主張するのと同じく、人は誰しも都合がいいものを「善」という。だからややこしくなる。都合が悪いものはすべて「悪」だ……おっと、話が逸れちまったな」

微苦笑して身じろぎする。善悪の話をするつもりはなかったが、つい喋り過ぎてしまった。今は、立香の心に刺さった毒針から溢れる(アグワ)(・マラ)が心の深い場所を冒す前に、早く蠍を殺さなくてはならないのに……

「人に備わっているものは、善性ではなく宿命だとオレは思う」
「……宿命?」
「そうだ。文字通り、変えることのできない定めだ。人は誰もが宿命に囚われている。そんな宿命に立ち向かい、打ち勝つ人間をオレは見てきた。オマエもそのひとりだ」
 自身の口端が片方持ち上がっていることに、テスカトリポカは気付いていなかった。
「面白い女だよ、オマエさんは。思ったよりも、オレはオマエを気に入っているようだ」
「……っ」
 立香の頬がほんのり赤くなる。
「オマエを悩ませる蠍はオレが踏み潰しておいてやる。そら、それを飲んだら部屋に戻ってベッドに入れ。眠れるまでオレが傍にいてやる」
「ありがとう」
 安心感に満ちた言葉は夜にとけた。微笑みには、さきほどまであった疲れの色はなかった。
 テスカトリポカは残ったコーヒーを飲み干した。マグカップの底には、砂糖が固まっていて、ひどく甘かった。

 テスカトリポカと添い寝をしたのは久し振りだった。
 彼の体温と息遣いは、張り詰めた立香の緊張をほぐし、まどろみへと誘ってくれた。最愛の人の腕の中で意識が眠りの底に落ちそうになった時、さきほどの彼の話の断片が脳裏をよぎった。
――人は誰しも都合がいいものを「善」という。だからややこしくなる。都合が悪いものはすべて「悪」だ。
 どうして、彼はあんな話をしたのだろう。
「…………」
 一瞬、立香の意識が覚醒する。
 〈太陽の民〉から最高神として崇められていたテスカトリポカは、スペイン人の征服によってアステカ帝国が滅亡し、宣教師によってキリスト教が広まるにあたって都合の悪い存在となり、不名誉なことにルシファーと同等の「邪神」として扱われ、征服者たちは信仰を許さなかったという。
 文明が滅んでから五百年以上が経った今、峻烈なる軍神の名は、しっかりと汎人類史に刻まれている。〈太陽の民〉から「善神」として崇拝されていた通りに……
 立香は考えるのをやめ、テスカトリポカの胸に身を寄せた。鼓動が重なり、背中に回っていた手に優しく抱き寄せられた。
 かつて命を懸けて戦う戦士たちを祝福した神は、魂を燃やして戦い続ける立香の傍にいる。