青空の下で

 レポートに煮詰まった時はシミュレーター室に行く。
 今回設定した時代は、一九五〇年代。場所はイングランド北西部の田舎。季節は初夏にした。なぜここにしたかというと、最近読んだ本に出てきた時代と地名が頭に残っていたから。
 田舎特有の、どこか懐かしさも感じる緑の多いのどかな風景。樹々に囲まれた大自然の中で深呼吸をした。吹き抜ける風が心地いい。目の前を黄色い蝶がひらひらと通り過ぎていく。
 小鳥の囀りを背景にして踏み慣らされた平らな道をのんびり進むと、やがて小高い丘に出た。澄み切った空気を肺いっぱいに取り込んで――シミュレーションだから実際には本当に吸っているわけではないけれど――伸びをして、寝転んでみる。
 ぼんやりとゆっくりと空を流れる雲を眺めて「魚みたいな形の雲だ」「あっちはフォウ君に似てるなあ」なんて思ったりするうちに、情報でいっぱいだった頭の中は空っぽになっていった。清々しい気分だ。
――あの雲、髑髏みたい。
 なんとなく、テスカトリポカを思い出した。
 新鮮な草のにおいを吸い込む自分の小さな呼吸音を聞きながら、なにをするでもなく、ただ髑髏に似た雲を眺めた。雲が目の端まで流れた時
「よう、マスター」
 顔に影が被さって、横からテスカトリポカが現れた。
「わっ」
 あまりにも突然のことで、驚いて大きな声が出た。まるで眠れないまま見た夢のようだ――。
「レポートを纏めるのをサボってこんなところにいたのか」
 わたしを覗き込んだまま、テスカトリポカは笑った。垂れ下がった金髪が烟っている。
「びっくりしたあ」
 慌てて手探りで地面に手を突いて身体を起こす。
「オレがくるとは思わなかっただろう?」
「う、うん。それもあるけど、ちょうど、あなたのことを考えていたので……」
「あん?」
 テスカトリポカはサングラスの奥で目を丸くさせたあと、にやりと笑った。
「なんだ、オレが恋しくなったのか?」
「……えっと……雲が――」首を巡らせてさっきの髑髏の雲を探してみるが、どこにも見当たらない。「雲が、あったんです。髑髏みたいな雲が」
 だから、と続けてテスカトリポカを見上げる。
「それを眺めて、あなたを思い出していました。思い出すくらいだから……恋しかったのかも」
 はにかんで膝を抱きかかえると、テスカトリポカは隣に腰を下ろした。微かな衣擦れの音が、彼の「そうか」という声に被さる。
「空を見るの、久し振り」
 ふっと吐息をついて、もう一度空を仰ぐ。初夏の空は高く、青々としている。
「……ところで、どうしてここに?」
「気にするな。大した用事じゃあない」テスカトリポカはわたしの方を見ないまま、身じろぎしてのろのろと片膝を引き寄せた。「おまえの顔が見たくなった。それだけだ」
「……それって……」
 風が一瞬で火照った頬を撫でていく。
「わたしが、恋しくなったってことですか?」
 白い美しい横顔を見詰めたまま言う。テスカトリポカがこちらを向いて、サングラス越しに青い眸と視線がぶつかった。
「そうかもな」
 一拍置いて、テスカトリポカはそれだけ言って、わたしの唇を塞いだ。