まったく起きる気配のない立香の寝顔を観察していると、規則正しい寝息が途切れて、閉じていた瞼がゆっくりと持ち上がった。眠たげな眸が何度か瞬き、視線が不安定に左へ右へと動いて、やがてテスカトリポカを捉えた。
「おはようさん」
「ん……」立香は眉間にシワを寄せ、ううんと唸りながら白い額を枕に擦り付けた。「……もう食べられないよ……」
寝ぼけている。とっくに明けているのに、まだ夜は穏やかに寝ぼけた少女を包んでいた。今日は休日なのだから、五分といわず一時間でも寝ていてもいいが、昨晩立香は「七時に起きる」と宣言していた。すでに宣言した時刻から三十分は過ぎているが。
「デートの約束を忘れちまったのか、お嬢さん。遅刻は許してやってもいいが、すっぽかされるのはごめんだぜ」
一拍。二拍。三拍置いて、枕に突っ伏していた立香は文字通り飛び起きた。「すぐ支度します!」
転がるようにベッドを出た立香の寝癖を見て、テスカトリポカは苦笑した。これは時間が掛かりそうだ。
「食堂でコーヒーを飲みながら待つとしよう」
盛大に寝坊したけれど、テスカトリポカは笑って許してくれた。
シミュレーターで、世界屈指の大きさを誇る水族館に行った。混み合っているかと思ったが、薄暗い館内は人もまばらで、静かだった。
分厚いガラスを隔てた向こう側は、果てがないようにどこまでも広大なディープブルーの神秘的な世界が広がっていた。
一糸乱れぬ動きで向きを変えて銀色の鱗を反射させる小魚の群れ、身体をしなやかにくねらせて海底を移動するサメ、堂々とのんびりと横切るマンタ、ドレスのような尾鰭を優雅に翻す色鮮やかな魚……岩場ではイソギンチャクが躍り、貼りついた真っ赤なヒトデが存在感を示し、ウツボが身を潜めている……四角い海の中を泳ぎ回る生き生きとした魚たちは、目を楽しませてくれた。
「人工的に作られた海といえども見応えがある。まるで海の縮図だな。捕食者であるサメもちらほらいるが、他の魚は食われないのか?」
「たまに他の魚を食べちゃうって聞いたことがあります」
「つまみ食いか。クセになるよな。オレは腹を壊してやめたが」
「…………」
あなたの場合は拾い食いではという言葉を飲み込んだ。
大型の水槽から離れると、通路の真ん中で等間隔に並んだ長円形の水槽があった。海水が満たされた中は柔らかな燈でライトアップされていて、大量のクラゲが水流に乗ってふわふわと流されていた。クラゲの群れを見ていて、わたしの心もふわふわした。これは癒される。テスカトリポカの腕に回した手に力がこもり、抱き着くようにして身を寄せた。
「きれいだね」
答えはなかったけど、絡まった腕の先で、手を優しく握られた。
海の中を漂うようにふたりで歩いた。
「これ、なんの水槽だろう」
その水槽は、ぱっと見、なにもいないように見えた。傍に寄って覗き込むと、巨影が目の前を横切った。
視界に映ったのは、黒と白のツートンカラーの、鱗のない流線型のボディ――シャチだった。かなり大きい。シャチは引き返してきて、大きな顔をこちらに向けてわたしたちの前で制止した。まるで来館者を観察するようにじっとしている。よく見ると、白いアイパッチの下には黒黒としたつぶらな眸があった。
「愛嬌があるが、海の殺し屋なんだってな。大型のサメと戦えばコイツが勝つ。獲物はいたぶって食い殺しちまう」
「……そうなの?」
「トップ・プレデター」彼は指先でガラスをこんこんとつついた。
「大いなる海の生態系の頂点がコイツだ」
シャチは指に反応するように顔を近付けた。
「生き物の群れには必ずリーダーがいるだろう? 凶暴で知能の高いシャチの群れを率いるのはどんな個体だと思う?」
「やっぱり、強い雄?」
「老いた雌だ」
「えっ、意外」
「群れは雌の血族だ。雌は若い個体に狩りやコミュニケーションを学ばせる。そうやって子孫に生き延びる術を教えるんだ。天敵がいないといえども厳しい自然界では幼体が生き延びる確率は低い。しかし、何十年と生き抜いてきた個体がいることで幼体の生存率は高くなる。コイツらはそれを本能で理解している。ああ、すまん、デートにふさわしくない話をしちまったな」
「ううん、面白いですよ。わたしの知らないことばかりだし」
「戦い、勝ち、生き延びる。闘争本能が強い生き物は好きだ」
シャチはじっとテスカトリポカを見詰めていたが、やがて興味をなくしたのか、それとも脅威ではないと判断したのか、尾鰭をしならせ、いってしまった。
「そっぽを向かれちまった。まだ見ていたかったんだが……」
「もしかして、シャチ、見たかったんですか?」
「正直なところ、戦いを好む海の強者を見られるのを楽しみにしていた」
「そっか……あ! じゃあ、シャチのショーを見ましょうよ。さっきポスターが貼ってありました。これから今日最後の公演があります」
「へえ? シャチが芸をするのか。面白そうだ。観に行くか」
「うん。行こう」
ショーを見て、そのあとは、レストランに行ってシャチのパフェを食べよう……そんなことを考えながらテスカトリポカの手を握った。