屋敷の庭に、今年もあでやかな百合の花が咲いた。
伯爵の祖父が植えたとされるその百合は、清く気高い伯爵そのもののようだとリィコは思う。
屋敷の南の、門扉から少し離れた場所で咲いている一輪の百合をリィコは大切に世話している。堂々と瑞々しい花弁を広げる百合は、彼女に微笑みを向ける伯爵のように魅力的で、いい匂いがする。大好きだ。
「リィコ」
不意に背後から聞き慣れた声がして、リィコは鼻歌を止め、水やりを中断して振り返った。
私用で養家であるラドモア家を訪っていた主人が——パンパンに膨れた麻袋を抱きかかえて——立っていた。
「おかえりなさい、伯爵様。すごい荷物ですね」
「帰る途中に街で困ってるおばあさんを助けたら、ありがたいことに御礼にと野菜をたくさんいただいたんだ」
じょうろを地面に置いて麻袋を受け取ろうとするリィコに構わずに「重いから俺が持っていくよ」伯爵は玄関の方へ向かう。
「まさか、歩いて帰ってきたのですか?」
ドアを開けたリィコの横を伯爵は優雅に通り過ぎた。
「ユースティアが馬車を出してくれたけど、街に戻ったところでおばあさんの悲鳴が聞こえて下りたんだ。火事があったみたいで、家の中に孫がいるとパニックになっていた。結果的に怪我人もなく、ボヤ騒ぎで済んでよかったよ」
「伯爵様は、お怪我はありませんでしたか? 申し訳ありません……! リィコがついていれば……!」
リィコはふがいない己を責めたが、伯爵は小さく笑って「大丈夫。それより、今夜はご馳走だな」キッチンの広すぎるカウンターに荷物を置いた。
いわゆる、「貧乏貴族」であるこの家には馬車がない。そもそも従者を雇う金もない。その日暮らしの生活で家計は火の車だ。それでも、伯爵とリィコは日々なんとか食い繋いでいる。街に現れた錬金獣から人々を守ったり、困り事を解決してくれた御礼にと、こうして街の人たちから食材を分けてもらうことも多々ある。この話を知った貴族たちは嗤ったが、彼らはなにもわかっていない。伯爵は街の人たちを深く愛している。人々もまた伯爵に敬愛と親しみを持っている……誰がなんと言おうとも、その事実だけで十分なのだ。
「カブにカボチャに、ナス……あっ! トマトまであります」
「ありがたいなあ」
「すぐに夕食の準備をします」
「いや、今日の夕飯は俺が作るよ。今、花の手入れをしていたんだろう?」シャツのボタンを外し、腕捲りをして、伯爵はリィコに柔らかく微笑んだ。「行っておいで」
リィコの胸の奥で心臓が小さく跳ねた。緊張や動揺からではなく、嬉しさとトキメキで。
「はい。伯爵様の百合に、お水をあげてきます」
伯爵の日差しのような温かい眼差しに見送られ、リィコは庭へと駆け出す。そして中身の少なくなったじょうろを手に、百合に歩み寄った。
どうか、この花がいつまでも美しく咲きますように。
どうか、伯爵様とずっと一緒にいられますように。
そんな祈りを込めて、リィコは丁寧に百合に水をやった。
馥郁とした香りが溢れる庭に、夕食の匂いがふわりと漂う。空では少しずつ夜が帷を降ろし、星が瞬きはじめる……伯爵とリィコの愛すべき一日の終わりは、穏やかなものだった。
たっぷりと水を浴びた百合は、風に揺れ、白い花弁を艶やかに光らせて、屋敷に戻るリィコを見守っていた。