焼きたてのジャガー

 食堂の前を通ると、焼きたてのパンの香りが漂ってきた。
 それはいつものことだが、今日はやけに食堂が賑々しい。人気の限定メニューが出たか、はたまた、珍しい人物が厨房に立っているのか……テスカトリポカは一度食堂を通り過ぎたが、ジーンズのポケットに片手を突っ込んで踵を返した。
 食堂はサーヴァントたちで混み合っていた。食事時でもないのにほぼ満席だ。そして、食事時でもないのに、皆クロワッサンやテーブルロール、サンドイッチといったパンを食べていた。
 入口の傍のテーブルにはテノチティトランがいて、クロワッサンを頬張っていた。
「ずいぶん嬉しそうだな、ハチドリ」
 彼女はテスカトリポカに気付くと、背筋を伸ばして手元の皿にクロワッサンを置いた。
「なにかの祭りか、これは」
「はい。マスターがパンを焼いて皆に振る舞っているのです。兄様もぜひ」
 テスカトリポカは首を巡らせた。厨房はここからでは見えない。彼は妹分へ背中を向けてテーブルから離れ、注文カウンターまで大股で歩いた。
 厨房を覗き込むと、ネモ・ベーカリーとエプロンをした立香がいた。ネモ・ベーカリーは慣れた手付きでパン生地を捏ねている。その奥で、ちょうどオーブンから焼き上がったパンを取り出したところだったらしい、キッチンミトンをした立香が慎重に鉄板を広いカウンターに移動させていた。
 バターの香りがふわりとテスカトリポカの鼻先を掠めた。鉄板に並んでいたパンが大きなバスケットに盛られていき、熱を帯びた鉄板はオーブンに戻された。
 不意に、視線に気付いた立香がテスカトリポカの方を向いた。
「あっ、テスカトリポカ」
「よう、精が出るな、マスター」
「クロワッサン、食べませんか? 焼きたてですよ」
 立香はバスケットを抱えて注文カウンターまでやってきた。中には小振りなクロワッサンと、ウサギやクマの顔を模った小さなパンがいくつかあった。動物たちにはチョコレートで可愛らしい顔が描いてあって、表情はどれも違う。
「コイツは?」
「こっちはおやつの時間に子供サーヴァントたちにあげようと思って作ったんです」
「ウサギにクマにネコか……顔もオマエが描いたのか? 中々上手い」
「……えっと、これ、やっぱりネコに見えます?」
 微苦笑して、立香は端っこのネコのパンに視線を落とした。
「ネコじゃないのか?」
「ジャガーなんです、これ」
 テスカトリポカがネコだと思ったのは、どうやらジャガーだったらしい。こんなにも威厳のないジャガーを、彼ははじめて見た。
「なんとなく作れるかなって思って作ってみたんです。でも顔を描いてみたら難しくて……なので他の動物は多めに焼いたけど、ジャガーだけはひとつしか作らなかったんです」
 子供たちには内緒にしてくださいと結んで、立香は恥ずかしそうに肩を竦めた。
「なら、それはオレがもらおう」
 口端を片方持ち上げて、テスカトリポカはジャガーを指差した。
「いいんですか? 子供向けのパンですよ?」
「これでいい。唯一のものは価値が高いからな」
 ジャガーはフィルム状の透明な袋に入れられてテスカトリポカの元へやってきた。こうして見ると売り物に見える。
「おまえさんが焼いたパンか……せっかくだ。部屋で食べるとしよう」
 ほんのりと温かいまんまるい顔のジャガーは、チョコレートで描かれた小さな丸い目をテスカトリポカに向けて、口を開けて小さな牙を覗かせている。威嚇をしているように見えなくもない。
「あの、感想、聞かせてください」
 バスケットを抱き直した立香は莞爾と笑んだ。彼女の眸には煌びやかな期待と情熱があった。
「オレのレビューは辛口だぜ」
「それでも、あなたの感想が聞きたい」
「落ち着いたらオレの部屋にこい。じっくり聞かせてやる」
「うん」
 頬をほんのり染めてゆっくりと頷いた立香を見て喉の奥で笑って、テスカトリポカはジャケットの裾を翻した。
 彼が提げた袋の中の唯一無二の愛すべきジャガーは、柔らかな牙を剥き出しにして、食堂にいるサーヴァントたちを威嚇した。