「初めて山に入った時のことを覚えているか?」
敷藁に横たわって意識が微睡んだ頃、名前を呼ばれたので返事をすると、二瓶はそんなことを訊いてきた。
瞬きをし、眠気で鈍った頭を傾けて二瓶の方へ顔を向ける。
頭と敷藁の間に手を入れて、彼も此方を見ていた。
「九歳の時だった」
視線を二瓶の眠た気な目から天井に戻して言った。
「親父に連れられて、兎狩りに行った」
「ぬはは、兎か」
「あの時はまだ幼く、当然だが、近くで山菜採りしかさせてもらってなかった。九歳になった翌日に、親父に狩りを見たいと駄々を捏ねたら、連れていってくれた」
懐かしくなり、口の端が緩んだ。
あの時の父親の顔を、よく覚えている。両眉を持ち上げて、口を開けたまま言葉を忘れたように瞬きだけ繰り返し、源次郎、と名前を力強く呼んだあと、日に焼けた顔を綻ばせて頭を撫でてくれた。
蝉の声がやけに大きく聞こえた、夏の日の朝だった。
「初体験はどうだった?」
「笑わないで聞いて欲しいんだが、いざ山に入ると、俺はだんだん怖くなって、親父にぴったり着いてばかりだった」
幼かった自分が知っている山は、振り返れば家の屋根が見え、風の音に母親が自分を呼ぶ声が混じり、飼い犬と土まみれになるまでじゃれあい、腹が減れば駆けて戻れるような、それくらいの距離でしかなかったのだ。
日差しを遮る木々のざわめきも、何処からともなく聞こえてくる鳥の鳴き声も、土の匂いも……知っているはずの世界は、自分の知らない世界だった。近くの茂みからなにか飛び出してくるのではないかという想像力が先走りして恐怖に駆られ、四方を見回してばかりだった。
「親父が突然立ち止まって遠くを見て動かなくなった時、俺は怯えて親父の足にしがみついた。身を屈めた親父が指を差した方を見ると、兎がいたんだ。親子連れの。子兎が草を食べてた」
親の兎は長い耳をピンと立て、頭を左右へ振り、辺りを警戒していた。数羽の子兎はそのそばで、夢中になって新芽を食べていた。生き生きとした姿は眩しく、鼓動が高鳴った。
「子兎がいることに気付いて、俺は親父に撃たないで欲しいと頼んだ。急に、可哀想になったんだ。親父は困った顔をしたが、頷いてくれた。結局その日は何も狩らずに帰った」
「はは、マタギの息子が情に駆られたか」
「あの時だけだ。それから数年してまた山に入った時は、鹿を仕留めた。これで後を継げると、親父は喜んだよ」
「なら、親父さんのためにも早く故郷に帰って後を継ぐべきだな」
「……そうだな。あんたと過ごすうちに、故郷の山が恋しくなってきた」
「そういえば、妻子はいるのか?」
「いや、いない。所帯を持ちたいと思った事はあるが……見合いも断ってきた」
「戦争で駆り出されたからか?」
「ああ。俺の身になにかあった時、残した妻に辛い思いをさせたくなくて」
「ならば、尚更故郷に帰るべきだぞ、谷垣。見合いもまた受けろ。それで所帯を持て。女の尻に敷かれるのもいいぞ。子が産まれたら報告に来い。見に行ってやる」
「孫の顔を見るみたいだな」
「土産を持っていく。一緒に熊でも狩るか。マタギの巻狩りを見てみたい」
「あんたと熊狩りか。楽しみだ」
「早く治せよ、谷垣」
二瓶が咳きをして寝返りを打った。天井に貼り付いた影が揺れた。
「二瓶」
「なんだ」
「ありがとう」
「……なにもしとらん」
背中越しに返ってきたのは無愛想な一言だったが、それでもよいのだ。ぶっきらぼうな態度も、彼なりの照れ隠しなのだろう。
未来のことなど考えたことはなかったが……なるほど。悪くない。
暫くして、二瓶が鼾を掻き始めた。
瞼の裏で未来を思い描くうちに眠気が被さってきた。
赤々と照る火の向こうの、二瓶の大きな背中をぼんやりと見詰めながら、眠りに落ちた。