牙を持つ太陽
星の生命を直に感じる灼熱の地、火山。
この地で、テオ・テスカトルは、警戒心と好奇心、滾る闘争心を魂の奥底に秘めながら、伴侶と共に長い月日を生きてきた。
縄張りを侵す者もおらず、不穏と悩みの種はハンターだけで、テオ・テスカトルは己の築いてきた幸福を護る為、ハンターと対峙したこともあった。時に餌を求めて他の大型モンスターの縄張りに入ったこともあるが、テオ・テスカトルの姿を見て慄く者もいれば、ハンターと死闘の末にこの地を護ったことを知っている者もいるので、皆道を開けた。
テオ・テスカトルが恐れるものはなにもなかった。
子の成長を見守り、子が巣立ちの季節になるのもあっという間のことで、愛おしい巣で洞穴の天井の間から星々の煌めきを見上げるのも妻と自分だけになっても、テオ・テスカトルは、幸福に満ち溢れていた。
老いたテオ・テスカトルが水辺に舞い降りた、ある日のことだった。
かん、かん、かん。
硬いものが触れ合う音と、異物の臭いに、テオ・テスカトルは息を潜めた。岩陰から音のした方を見ると、人間が一人、岩の間に武器を振り下ろしていた。
男が握り締めた棒状のそれは細く長く、二つの棒が垂直に交わって作られているようだった。鋼色をした部分は真っ直ぐではなく、左右の均衡を保つように曲線を描き、両端は細く尖っている。
ハンターだろうかと、テオ・テスカトルは鼻面に皺を寄せ、人間を見た。
人間は、雄だ。体躯逞しく、体毛も鱗も角もない皮膚は日に焼けていて、頭部の一部だけは、黒々とした短い体毛に覆われている。腰に巻きつけた筒状の入れ物には何やらごちゃごちゃと物が入っていて、やはりハンターを彷彿させる。
ハンターと違うのは、身を護る防具が何もないということだろうか。
この人間は、上半身を黒い布切れ、太い腰から下は、灰褐色の布切れ(以前殺したハンターを調べたことがあるので、それくらいならわかる)で表皮を覆っているだけだ。
首には白く長い布が巻き付いている。きっと、体温調節をするために表皮から出る水分を吸っているのだろう。
テオ・テスカトルは、男をじっと見詰めた。
男は、一心不乱に手にしたものを振り下ろしている。
時々しゃがみ込み、こそげた部分を手に取り、腰に提げた筒状の袋にしまったり、首を横に振って溜息を吐いている。
「ここもねぇかなぁ……」
男は、荒く削れた岩壁を見上げ呟いた。テオ・テスカトルは、水を飲むことを忘れ、男を観察し続けた。男は、火山に夜が訪れるまで、同じ事を繰り返していた。
金属と岩が触れ合う硬い音が、心地良かった。
それから、男は毎日姿を現した。
テオ・テスカトルも、毎日岩陰から男を見た。殺戮を目的にこの地を訪れる人間以外を、初めて見た。興味が湧いたのだ。
この男は、何をしようとしているのか。一体、何を掘り出そうとしているのか。
男は気付いていないが、水辺に舞い降りたテオ・テスカトルのにおいや気配に気付いた小型の肉食モンスターだけは、寄ってこなかった。
クンチュウが時々男に向け転がってくるが、男は飄々とそれを避けて、岩壁にぶつかったクンチュウを持ち上げたり、蹴って転がして、崖下に落としていた。
水辺は、穏やかな時に満ちていた。
毛繕い最中、妻が、何か面白いものを見付けたんでしょうと、好奇心に満ちた目で訊ねてきた時、テオ・テスカトルは、男の事を素直に話した。
妻はらんらんと瞳を輝かせ、話を聞きたがった。男を見たがっていたが、妻は、再び身籠った気配がしていたから、巣を離れることはしなかった。
テオ・テスカトルは土産話を楽しみにしている妻の額を舐めて、ゆっくりと両翼を広げた。
「毎日、ここに来ているのですか?」
赤茶色の岩の隙間にピッケルを振り下ろすのをやめ、ハンマーで硬い岩を砕き始めた男の背中に問う。
「ああ、そうだよ」
飛び散った細かい岩の破片が足元で転がった。
「何を掘っているのですか?」
「んー、”火山の太陽”を」
「はぁ……?」
男は手を止め、両足の間にハンマーを下ろし、両手を柄の端に置いた。
男は、ハンマーを、まるで杖のように扱う。軽々と振り上げては、重い一撃を叩き込む。ただの炭鉱夫ではないことは、一目瞭然だ。
「俺の親父の夢なんだ、この火山の何処かにある、真っ赤な、心臓みてーな、熱い鉱石を掘り出すの」
男は首に垂らしたタオルでこめかみから伝う汗を拭った。
「火山の太陽」——子供の頃、母に読んでもらった物語で出てきたが、御伽噺だろうに。
「なんという鉱石なのですか? それは、私達ハンターに依頼して見付けるのでは、いけないのでしょうか?」
男は腰のポーチからクーラードリンクを取り出すと、一気に呷って、「はは、俺も、実は元ハンターなんだ」言った。
「ハンマーを使ってらしたんですか」
「おゥ」
「怪我か何かで、引退を?」
「いや……」
彼方で噴火している火山に視線を向けて、男は目を細めた。遠い過去を振り返っているのだろうか。
「疲れちまったんだ、モンスターの、生き物の命を奪うことに」
岩の隙間から、灰色のくず鉄が零れ落ちた。
「そりゃ生業だからよ、仕方ねえ。ギルドからきた依頼をいくつもこなしてた。でもな、そのモンスターにだって、家族がいるわけだろ? 親モンスターを仕留めた後に、巣から鳴きながら子どもに出て来られたら……なァ?」
男は自嘲気味に笑って、首を傾げた。
「俺が親モンスター殺すのを、見ちまったんだ。ずっと、見てたんだろうな。親に言われたとおりに、絶対に巣から出るなって言われてただろうによ」
「それで、引退を」
「ああ。俺は、弱かったんだ。鬼になれなかった。俺ら人間だって、モンスターに苦い思いさせられてるってのにな。まぁそんで、ハンター辞めてアイルーと楽しくやろうとした時に、炭鉱夫だった親父に火山の太陽の話を聞いてな。それで、今もこうして、それを探してる。親父が、大型モンスターの縄張りだからって掘れなかったエリアを」でも不思議なんだよなぁと、男は続けた。
「ここ二年くらい水辺も調べてたんだが、大型モンスターどころか、ゲネポスすら現れなくてな」
「え? あのエリアは、色々出ますよ?」
「だよなぁ? なんでだろうな?」
二人して首を傾げて、先に男が噴き出して、緩やかな時間が流れだした。
流れもものの砕竜が、驚異的なまでに縄張りを拡げている。
突然現れた荒れくれものに、砕竜を狩猟にきた何人ものハンターが返り討ちに遭ってきた。
長年共にこの地で暮らしてきた鎧竜が、砕竜の拳に倒れた。
彼の自慢の硬皮は砕かれ、剥き出しの皮膚はズタズタに裂かれ、血溜まりに横たわる凄惨な死骸を見て、テオ・テスカトルは、酷く胸を痛めた。
ハンターが砕竜を始末してくれるだろうという細やかな期待が消えた今、妻と、後に産まれてくる子の為に——安寧の為に、砕竜を倒さねばならない。
テオ・テスカトルの体内を巡る血潮は、火口から噴き出る溶岩のように熱くなっていた。
凶暴なブラキディオスの噂は、とっくに耳に入っていた。
それでも、諦めきれず、火山に足を運んでいた。慎重に、辺りを気にしながら。
護衛を毎日のように引き受けてくれたあの礼儀正しいハンターも、ブラキディオスに打ちのめされ、今は、村で療養している。
生きて逃げられたのが奇跡だという。
途中で気を失ったのに、いつの間にか地底火山の入り口にいたのだというから、不思議な話だ(さらに不思議なことに、彼女は最初、何故か譫言のようにテオ・テスカトルの名を呟いていたそうだ)。
彼女は後に回復し、繁殖期を迎えたブラキディオスは、狂竜ウイルスにも感染していたと言っていた。
貴重な生存者の証言は、村だけでなく、ギルド全体を揺るがした。
一ヶ月間は、彼女が心配で流石に地底火山に行くのをやめた。彼女のそばにいて、肉刺だらけの手で、包帯の巻かれた白い指を握っていた。
そしてその日も、いつものように彼女の見舞いに行った。
明日から地底火山に行くと言うと彼女の顔から笑みが消え失せた。
「どうか、行かないでください、お願いだから」
目に涙を浮かべ、声を震わせ、彼女は懇願した。
シャツの裾を引っ張られ、苦笑いを返して、大丈夫だからと宥める。
「あなたを失いたくないのです」
彼女ははっきりとそう言って、泣いた。
砕竜は、暫く姿を現さなかった。
何処かで、巣を作ることに夢中になっているのだと思う。遠い昔の自分のように。
あの男も、見ていない。
もう、来ないのだろうか。
彼はある日から雌のハンターを連れてきていたが、その雌のハンターも砕竜に殺されかけたのを、テオ・テスカトルは知っている。
ハンターは砕竜の隙をつき、男が掘っていた岩の窪みに逃げ込んだ。
砕竜も死にかけの生物に興味を無くしたのか、何処かへ行ってしまった。
辺りが静寂に包まれた頃、ハンターは窪みから這って、そこで力尽きた。
テオ・テスカトルはハンターのそばに寄った。
目の前で生命の火が消えそうになった時——あの男の顔を思い出して、テオ・テスカトルは、雌のハンターを咥え、草木の芽生えた涼しげな場所へ運んだのだ。
助けに来た人間にすぐ見付かるように。
単純に、あの男が悲しむかもしれないと思った。
自分が鎧竜の死を目の当たりにした時と同じく。
この人間達は、最初は会話をすることもなく、淡々とそれぞれの使命を果たしていたが、いつからか楽しげに話をしていたのを覚えている。
テオ・テスカトルには内容はわからないが、男が嬉しそうならそれでよかったし、テオ・テスカトル自身、岩陰でピンと耳を立て、彼等の会話に耳を傾けるのに夢中になっていた。
だから、あの雌には死んで欲しくなかった。
テオ・テスカトルは、重い足取りで、愛すべき地を歩いた。
かん、かん、かん。
あの聞き慣れた音がして、鼻をひくつかせる。
男のにおいがする。
テオ・テスカトルは、四肢を弾ませた。
割れた岩の隙間を掘る男がいた。
今日は一人だ。
雌は、死んだのだろうか。
「ん」
テオ・テスカトルが足を止め、男が振り返った。
視線が交わる。
「テオ・テスカトル……」
男はぎょっと目を見開いた。
どのくらいの間見つめあっていたかわからない。
男は肩を上下させ、瞳をギラギラと光らせている。命の危機に追い込まれた時のモンスターのようだった。
テオ・テスカトルは、男と距離を置いたまま、その場に伏せた。
欠伸をして、尾を左右に振って、そのまま続けろと男に向けて小さく鳴いた。
男はきょとんとしてから、雌のハンターとコミュニケーションを取る時と同じく、笑って、また作業に戻った。
時々音は鈍いものに変わるが、リズミカルな音に、眠気がきた。
何度目かの欠伸をした時、遠くからモンスターの遠吠えがして、テオ・テスカトルは半分閉じていた目を一気に見開いた。
男も、はっとしたように、テオ・テスカトルに身体を向けた。
駆けて来たのは、砕竜だ。
裂けたような口の端から涎を垂らし、長い舌を波打たせ、鼻孔をいっぱいに開いて、丸みを帯びた拳を打ち鳴らしている。一点に向けられた視線は、かつてないほど怒りに満ちている。「自分の縄張り」に侵入したテオ・テスカトルと男に対し、威嚇をして、砕竜は走ってきた。
テオ・テスカトルは、首を巡らせ、鳴いた。
早く行けと、鳴いた。
テオ・テスカトルは、雄叫びを上げながら、力強く大地を蹴り、走った。
頭をやや下げ、己の身を護ってきた角で、砕竜とぶつかった。
重い衝撃が身体を激しく揺さぶった。テオ・テスカトルの身体は一瞬空中に留まった。突進していた砕竜の身体が傾き、倒れる。
テオ・テスカトルは砕竜の首筋に噛み付いた。艶やかな硬皮にヒビが入り、砕竜はもがき、前足を無茶苦茶に振り、テオ・テスカトルは顔に一撃喰らったが、些細なことではなかった。
顔に付いた粘液と、砕竜の吐き出す紫色の生臭い息の方が不快だった。
力の限り四肢を踏ん張り、砕竜の巨躯を持ち上げる。身体を大きく翻し、砕竜を投げ飛ばした。
トサカから岩場に叩きつけられた砕竜は、口からひゅーひゅーと空気を洩らして、テオ・テスカトルを睥睨した。
その時、テオ・テスカトルは、予想外の反動を受けた。顔に付いた緑色の粘液が熱を帯びてきて、爆発したのだ。
視界がぐらりと揺れて、テオ・テスカトルは起き上がり、闘志漲る砕竜のパンチを、頭に受けた。
若く、恐れを知らぬ砕竜は、何度もテオ・テスカトルに向け、緑色の粘液に塗れた拳を振り下ろした。
衝撃。
振動。
爆発。
それの繰り返しだった。
岩盤に頭を叩きつけられ、テオ・テスカトルの口から唾液と血液が飛び散った。
勝利を確信したのか、砕竜が挑発するように鳴き、拳を打ち鳴らす。
激痛は、テオ・テスカトルに老いを知らしめた。
起き上がり、紅い粉塵を撒き散らして火打石のように牙を鳴らせば、熱風が立ち込め、火柱が迸った。轟音に紛れ、粉砕竜の怒号が空気を裂いた。
テオ・テスカトルは後ろ足で地面を蹴り、羽ばたいた。
あれったけの力を込めて翼を震わせ、粉塵を飛ばし、牙を一度大きく鳴らし、周囲を燃やし尽くした。
火山は、ただ静かに、有り触れた光景を前に、テオ・テスカトルの身体から流れ出るそれと同じく、どろどろと真っ赤な生命を吐き出すだけだった。
テオ・テスカトルの発生させた爆発と衝撃波によろめき、砕竜は初めて双眸に怯えを見せたが、もう遅かった。
砕竜は、テオ・テスカトルの魂の奥に眠っていた、憤怒、闘争心、本能——それらを呼び覚ましてしまった。
閾値を与えられ、テオ・テスカトルは、侵入者に牙を剥いた。
砕竜の拳を何発も躱し、距離を詰めて飛び掛かり、見開かれた片目に爪を突き立て、抉り取る。
砕竜は、狼狽とも取れる鳴き声を上げ、必死にテオ・テスカトルを振り落とそうとしていた。
もし彼に、テオ・テスカトルのような爪があったら、目玉を抉られずに済んだかもしれない。
砕竜は身を捩り、怨嗟の篭った視線をテオ・テスカトルに向け、足を引きずり、逃げた。
その姿が遠くに消えるまで、テオ・テスカトルは、砕竜を見ていた。
傷の深い前脚と、粘液でベタついた脇腹を舐めた。呼吸する度に脇腹が痛むのは、骨を折られたからだろう。
暫くは巣で傷を癒さなくてはいけないが、妻と腹の子の為には、狩りにいかなくてはならない。
テオ・テスカトルは大きく鼻息を吐き、ぴたりと動きを止めた。
消え去った生物の気配がして振り返ると、岩壁から男が顔を覗かせていた。目が合うと、男は精悍な顔立ちを苦々しく歪め、
「大丈夫か?」
と、間の抜けたことを言った。
テオ・テスカトルは尾を揺らして、鼻を鳴らした。
それだけで鈍痛が身体を走り抜けたが、精一杯の余裕を見せると、男はホッとしたように破顔した。
なんて危機感のない男だろうと思ったが、男にそれを伝える術はないので、テオ・テスカトルは音を立てずに両翼をはためかせ、巣に戻ることにした。
爪の先や尾の先から、血がぼたぼたと落ち、褐色の大地に吸われて、まだらな跡を残していった。
その日、妻は悲壮感を孕んだ声でテオ・テスカトルを呼び、一晩中傷を舐め、くっ付いて、離れなかった。
翌日、テオ・テスカトルは静謐を破る声に深い眠りから目覚めた。
崖の上から声のする遥か下を見ると、あの男が天を仰ぐように両腕を振り、
「おーい、いるか、テオ・テスカトルー!」
叫んでいた。
テオ・テスカトルには人間の言葉はわからないから、首を傾げ、男を見下ろす。
「あー!いたいた!昨日はありがとな!」
男は、ずっと自分のことを呼んでいたのだろうか。テオ・テスカトルは、低く鳴いた。
「お前怪我してるだろ!? 傷大丈夫か!? ここに! お礼に肉を置いとくから! これ食って早く治せよ!」
男の声は、よく通った。
起きてきた妻が、怪訝そうに下を覗き込む。
「あー!? お前奥さんいるのか! 肉ゥ、足りるかわかんねぇけど、傷、しっかり治せよ!」
妻は目を見開き、小さな人間の大きな声に耳を傾けていた。
男は最後にまた手を振って、テオ・テスカトルの縄張りを出ていった。
テオ・テスカトルは、妻と、男の施しを喜んで受けた。
毒が入っていたらどうするのと、妻は警戒していたが、あの男はそんなことをしないという確信があって、テオ・テスカトルは先に肉を食らった。
自分と妻に精気を与えてくれた肉は、どちらかといえば脂肪分の方が多かった。もしかしたら、雪国に生きるモンスターのものかもしれない。
肉の塊を平らげ、爪を舐めながら、テオ・テスカトルは、見知らぬ極寒の世界のことを考えた。
一週間前、地底火山から戻るなり、彼は、煤けた顔を火照らせて、
「あんたは夢を見てたんじゃない」
興奮気味に私の肩を揺さぶった。
まだ骨がくっついていない右腕が軋むようだったが、
「何がですか?」
冷静に訊ねた。
「テオ・テスカトルだ、テオ・テスカトルが、俺を助けてくれた。ブラキディオスとも闘ってくれた」
「は、はい? それは……」
「信じられねぇと思うが、俺がずっと掘ってる間も、テオ・テスカトルはそばにいたんだ。リラックスしてた、あいつは、俺を見てた」
「テオ・テスカトルが……?」
「あんた、確かテオ・テスカトルがどうのこうの言ってたよな? テオ・テスカトルが運んでくれたとかどうの……きっと、そいつだ。そいつが俺を助けてくれた」
彼があまりにも真面目な表情で言うので、古龍種(モンスター)がそんなことをするわけないだろうと反駁したかったが、それよりも先に安堵の感情がこみ上げてきて、瞬きだけをして、頷いた。
「とにかく、あなたが無事で良かったです」
素直に男の帰還を喜んで、身体を乗り出して、彼を抱き締めた。
巣にいる間も男のことが気になったが、それを妻に悟られないように過ごした。
テオ・テスカトルの傷はすぐに癒え、妻ももの悲しげに鳴くこともなくなった。
火山が噴火活動をしなくなったある日、吹き抜ける風を浴びて両翼を広げると、もう大丈夫なのと、妻は首を傾げた。
大丈夫だと、テオ・テスカトルは妻の耳を甘噛みした。
背後からぬるい風が吹いた。
剥き出しの項を撫でるそれに手を止めて振り返ると、舞い降りたばかりなのだろう、翼を折り畳んだテオ・テスカトルの足元で、砂埃が立ち込めていた。
青い双眸は、真っ直ぐにこちらに向けられている。
「元気になったのか」
ふっと笑みを零して、作業を中断する。
テオ・テスカトルは返事をするように、短く鳴いた。
一人と一体は、微妙な距離を置いて、向き合った。
古よりこの地に住まう炎の王は雄々しく、威厳に満ち溢れ、活気も横溢で、美しかった。
「暫く、考えたんだけどよ」
ピッケルを放り投げて、緩慢に足元に座り込む。尻の下はゴツゴツとしていて最悪の座り心地だったが、胡座を掻いて、折り曲げた膝に掌を置いた。 背筋を伸ばし、テオ・テスカトルを見詰める。
「俺はこの地底火山に、四年通ってる。最初は肉食モンスターに困ってた。だが、ある日からモンスターに襲われなくなった。おかげで水辺を調べるのが捗った」
テオ・テスカトルは伏せた。
優雅に尾を波打たせ、此方の話を聞いているようだった。
「お前が、見守ってくれてたんだな? ずっと……不思議で仕方ねぇけど……俺はお前に」
次の瞬間、傍で岩が砕ける硬い音がした。視界の端で塵埃が立ち込め、岩盤を打ち砕き現れたそれ——隻眼のブラキディオス——がこちらに拳を振り上げ、脇腹が熱くなり、それが最後に感じたものだった。
空中を、自分の身体が弧を描き飛んだ。ピッケルを振り下ろす時のようだと、逆さまの視界のまま思った。
テオ・テスカトルがブラキディオスに体当たりを食らわせ、翼からは赤い粉が撒き散らされ、風に煽られ雲散する。
目の前の怒涛の攻防はスローモーションだった。
空中でテオ・テスカトルが吠え、牙が重なると、辺りは紅蓮の炎に包まれた。
ああ。
まるで、太陽だ。
全ての生命を照らす光。
決して手の届かない、崇高なもの。
それは、テオ・テスカトルそのものだ。
なんて美しく、力強いのだろう。
テオ・テスカトルの後ろ足に蹴り飛ばされたブラキディオスの頭が仰け反り、首がおかしな方向に曲がり、そこで視界が霞み、鈍痛と気怠さに、身体が動かなくなっていった。
自分の腹から流れ出るのは、生命だった。白いシャツを真っ赤に染めて、心臓が鼓動を刻む度、それはとくとくと流れ出て、想いを馳せ、熱い夢を見た地に染み込んでいった。
砕竜との因縁に、決着がついた。
秩序を乱した砕竜は死に、テオ・テスカトルは、生きている。
それは自分達の世界の避けられない出来事だ。だがそれはこの世界の理であって——人間は、関係がないのだ。
テオ・テスカトルは息を弾ませて、男に駆け寄った。
四肢を投げ出し、男は横たわっている。脇腹の肉が抉れ、そこからおびただしい量の血が流れ出ている。
テオ・テスカトルは、動揺した。
「お前は、強いな」
男の口から、呻き声が漏れた。口から、ごぼごぼと血泡が流れ出る。前脚で、男を仰向けにすると、引き締まった身体は、男自身の血液に浸っていた。
「俺が探してた太陽ってのは、お前の、ことだったのかもな」
男は真っ白な顔で微笑んだ。
「助けてくれて、ありがとう」
男の指がテオ・テスカトルの鼻面を一撫でして、地面に落ちた。
上下に波打っていた胸が動かなくなって、男の双眸から光が消えるのを見た。
テオ・テスカトルは、鼻先で男の顔をつついた。何度も何度もつついた。
前脚を男の胸を置いても、へこんだ胸は膨らまない。
俯いて、どれくらいそうしていたかわからない。
血の臭いと死の臭いに包まれ、男の身体は、徐々に冷たくなっていった。
男の死は、テオ・テスカトルに、初めて喪失感というものを与えた。
魂が、泣いている。
胸が深く抉れたような感覚に、ウオウ、ウオウと鳴いた。
去りしものを想って鳴いた。
テオ・テスカトルは一人の男を弔う為に、頭上の太陽に向けて吼えた。
慟哭にも似たそれは灼熱の大地に轟き、世界を震わせた。